ルイ3世 (コンデ公)
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ルイ3世・ド・ブルボン=コンデ (Louis III de Bourbon-Condé ,1668年11月10日 - 1710年3月4日)は、コンデ公。公位を継承してわずか一年で亡くなったため、一生のほとんどを2番目の称号ブルボン公(duc de Bourbon)の名で呼ばれた。他にモンモランシー公(duc de Montmorency)、アンギャン公(duc d'Enghien)の称号も保持していた。
アンリ3世と妃アンヌ・ド・バヴィエールの次男として、パリのオテル・ド・コンデで誕生。当時の社会では、王朝の熟慮で多くの政策が行われていたが、同じ一族内の決定についてはそうではなかった。強力なブルボン=コンデ家と、王の血を引く庶出の娘との結婚が、ルイ14世がその眉を上げるが如くにあっさりと決められたのである。しかし、コンデ家の長老ルイ2世は、かつて従弟ルイ14世に対抗してフロンドの乱で反乱軍側についたという負い目があり、そのことが老いたる彼の頭の中を占めるようになっていた。彼の孫息子ルイに王の庶子ルイーズ・フランソワーズが降嫁するのは、コンデ家への厚遇であり、ルイ2世に対するものではなかった。
コンデ家は、多くの身体的・精神的に障害を持つ子孫を輩出してきた。ルイ3世も例外ではなかった。彼は身長が5フィート半しかなかった。彼はドワーフのような小男とはいわれなかったが、身長が低いといわれていた。事実、彼の姉妹たちは『王室人形』または『小さな黒いカブトムシ』と揶揄されるほど華奢で知られており、猫背でもあった。ルイは不格好なほど頭部が大きかった。加えて、肌の色は黄みがかったオレンジ色をしていたという。また、当時としては最高の教育を受けながら知性的な人物ではなかった(全く知性がないというわけではないが)。
彼がコンデ公でいられたのはわずか1年足らずであった。父や祖父のように、亡くなったときには回復の見込みのない精神錯乱状態にあった。実際に亡くなるまでの数年間、彼は狂気の世界にいたのである。『ひどい顔をしている』と歴史家に記されたルイは、42歳の若さで亡くなった。
[編集] 子女
- ルイ・アンリ(1692年-1740年)
- ルイーズ・エリザベート(1693年-1775年) コンティ公ルイ・アルマン2世の妻
- マリー・アンヌ(1697年-1741年) 兄の意向に反し、秘密裡にジョワイユーズ公ルイ・ド・ムランと結婚
- ルイーズ・アンヌ(1695年-1768年)
- シャルル(1700年-1760年) シャルロワ伯
- イザベル(1701年-1765年)
- アンリエット・ルイーズ(1703年-1772年) 尼僧
- ルイ(1709年-1771年) クレルモン伯
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