フロンドの乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フロンドの乱(フロンドのらん, 1648年 - 1653年)は、17世紀フランスで起こった反乱。フランスにおける貴族の反乱としては最後のもので、貴族勢力は打倒され、絶対王政の確立につながった。 フロンド(fronde)とは当時流行していた投石器を意味し、パリの民衆がマザラン邸をめがけて投石したことから呼ばれるようになったという。
[編集] 概要
1643年、ルイ13世の死によって、ルイ14世がわずか5歳で即位、大后アンヌ・ドートリッシュが摂政、ジュール・マザランが実質宰相の座に着く。マザランは、リシュリューの政策を継承し、貴族層と対抗、三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆のいっそうの反発を買った。 当時、売官制によって、民衆のうち富裕層が法服貴族として増加していた。法服貴族はパリ高等法院にも基盤を持ち、その結果、民衆と貴族勢力が結合し宮廷と対立する背景となった。また、アンヌ・ドートリッシュがスペイン人、マザランがイタリア人であったことも反乱の一因といわれている。その後、イギリスで起こった清教徒革命も影響を与えた。
1648年、マザランが高等法院のメンバーを逮捕したことをきっかけに、当初は民衆と法服貴族が蜂起。反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は、寝たふりをして難を逃れたとされているが、その後国王とマザランはパリを一時退去せざるを得なくなった。 ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている。
王党派のコンデ公の軍がパリを逆包囲していったん鎮圧するが、衆望を集めたコンデ公がマザランと対立して反乱軍に加わってからは大貴族も含めた反乱に拡大した。しかし、反乱側は諸階層の利害の対立から、内部分裂による自滅の道を歩み、これに乗じたマザランが鎮圧に成功した。