ルイーズ・マウントバッテン
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ルイーズ・マウントバッテン(Drottning Louise, Louise Alexandra Marie Irene Mountbatten, 1889年7月13日 - 1965年3月7日)は、スウェーデン王グスタフ6世アドルフの2度目の妃。
ルイーズは、イギリス海軍大将であったルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク(のち改姓し初代ミルフォード=ヘイヴン侯となったルイス・アレグザンダー・マウントバッテン)と、ヘッセン大公女ヴィクトリアの次女として、ハイリゲンベルクで生まれた。
若い頃のルイーズは、寡夫や王とは絶対に結婚したくないと公言していた。1909年に20歳のルイーズは、ポルトガル王マヌエル2世からプロポーズを受けた。ルイーズの大伯父であるエドワード7世はこの縁組みを実現させたいと考えたが、ルイーズはこの結婚申し込みを穏やかに断った。王はルイーズの両親に、娘の気持ちを変えさせるよう頼んだ。が、ルイーズはマヌエルのことを好いていたにもかかわらず、先の宣言をまた繰り返した。第一次世界大戦中、ルイーズは看護婦を志願して、フランスの前線にある病院で約2年働き、のち王立赤十字勲章を授けられた。
しかし、ルイーズは皮肉にも、自分の言っていたこととは正反対の相手と結婚してしまう。1923年11月3日、ルイーズはスウェーデン王太子グスタフ・アドルフと結婚した。彼は、ルイーズの母ヴィクトリアの従妹に当たる最初の妃マルガレータと死別しており、5人の子持ちだった。この結婚は非常に幸福なものとなった。ルイーズは、女児を死産したあと子供を生めなかったが、大の子供好きで、グスタフの連れ子たちとよく遊んだ。フィンランド・ソ連間の冬戦争の間、フィンランド人の子供たちがスウェーデンへ避難してくると、彼女は春の住まいとしていたウルリクダール宮殿の敷地内に子供たちの住居を整え、毎日のように子供たちの遊びに加わっていた。戦争終結後に子供たちが帰国しても彼女は子供たちと連絡を取りあい、のちにヘルシンキへ出かけて、成長した彼らを訪問している。
一方、ルイーズは風変わりな女性でもあった。彼女はポメラニアン犬を数匹飼っていて、外国旅行にも連れて行ったが、問題を引き起こすとまずいからと人前では犬を隠すのだった(彼女は常に、グリプスホルム伯爵夫人とかオルソン夫人という偽名を用いた)。また、非常に神経質な一面もあった。ロンドン滞在時、ルイーズは信号無視をしたり、突然道路を渡ろうとするのだった。ある日、とうとうバスと接触してしまったが、その時ルイーズは「私はスウェーデン王妃です。」と印刷された小さなカードを携帯していた。どうしてそんなことをするのか、弟ルイス・マウントバッテン卿が尋ねると、「もし私が路上で倒れて人事不省になっても、きっと誰も私が誰だか気づいてくれないわ。私のハンドバッグを開けた人が、このカードを見つけてくれるわよ。」と言った。似たような話が伝えられており、ルイーズはお供の者に「スウェーデン王妃」と書かれたボール紙を持たせていたという。
ルイーズ王妃はスウェーデン国民に好かれていて、彼女のユーモアと地に足のついた暮らしぶり(グスタフ6世アドルフもそうだった)を高く評価されていた。ストックホルム市内では、国王夫妻が全く2人だけで散歩しているのがしばしば見かけられた(護衛どころか、宮殿から誰もついてきていなかった)。一目見ただけでは、夫妻はどこでもいそうなストックホルムの老夫妻であり、王はすれ違う人に穏やかに帽子を上げて挨拶するのだった。ルイーズはストックホルムのガムラスタン(旧市街)で買い物を楽しみ、毎週宮殿からやってきては、文字通りうろうろ歩き回っていた。ストックホルム市民は混み合った店内で、振り返ると突然隣に王妃が立っており、織物やテーブルクロスを品定めしているのに出くわした。そして次の日の朝に新聞を広げると、ティアラをかぶったイヴニングドレス姿の王妃が外国からの賓客を晩餐会でもてなした、という写真付き記事を見つけるのだった。
ルイーズは、数年来煩っていた病気のため、1965年3月7日に、緊急手術の後死去した。彼女が最期に国民の前に姿を見せたのは、1964年12月におこなわれたノーベル賞授賞式だった。彼女は、ストックホルム郊外の王立墓地に、夫の隣に葬られた。