リュシマコス
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リュシマコス (希:Λυσίμαχος、羅:Lysimachos、紀元前360年‐紀元前281年)(在位:紀元前306年‐紀元前281年)はトラキア、小アジア、マケドニアの王である。また、ディアドコイの一人としてディアドコイ戦争を戦った。
[編集] ディアドコイ戦争以前
リュシマコスはクランノン出身のテッサリア人アガトクレスの子としてマケドニアのペラにて生まれた。アレクサンドロス3世の遠征の間、彼は王の親衛隊の一人であり、インドにて優れた働きを示した。アレクサンドロスの死後、彼はトラキアとケルソネソスの太守に任じられ、その間オドリュサイ人の王セウテス3世と戦った。
[編集] ディアドコイ戦争
紀元前315年、リュシマコスはアンティゴノスに対抗してカッサンドロス、プトレマイオス、セレウコスと同盟を結ぶ。紀元前306年、アンティゴノスが王を称すると、彼もそれに倣い王を称した。 紀元前302年に再びカッサンドロス、プトレマイオス、セレウコスと二度目の対アンティゴノス同盟を結び、リュシマコスはカッサンドロスから兵士の提供を受けて小アジアに攻め込むも、アンティゴノスの接近を受けてヘラクレア近郊へ引いた。そして、夫を失ったアマストリス(ダレイオス3世の弟オクシュアルテスの娘でクラテロスと結婚)と結婚した。 紀元前301年にセレウコスと連合し、イプソスの戦いでアンティゴノスを破る。勝者たちはアンティゴノスの遺領を分割し、そのうちリュシマコスはリュディア、イオニア、フリュギアそして小アジアの北岸を得た。
セレウコスの強大化に脅威を感じたリュシマコスはプトレマイオスと連合し、アマストリスと離婚してプトレマイオスの娘アルシオネ2世と結婚した。紀元前297年、アンティゴノスの息子デメトリオスと戦ったが、紀元前294年にデメトリオスのマケドニア統治を認めることにより、講和した。デメトリオスは後になってトラキアを脅かしたが、ボイオティアでの反乱とエピロス王ピュロスの攻撃により撤退した。
紀元前288年、リュシマコスとピュロスと共にマケドニアに攻め込み、デメトリオスから国を奪った。彼らはマケドニアを共同で統治をしたが、紀元前285年にリュシマコスはピュロスを追放し、単独のマケドニア王となった。
[編集] 晩年
後継者問題はリュシマコスの晩年を不幸なものとした。紀元前284年、アルシノエはアガトクレス(リュシマコスとオドリュサイ人の女の間の息子で長男)を差し置いて自身の息子に王位を継がせんと欲した。彼女は兄弟のプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの長男)の助けを得てアガトクレスに対し陰謀を企て、アガトクレスは処刑された。この事件によって、多くのアジアの都市がリュシマコスに対して反乱を起こし、彼の多くの友人たちが彼を見限った。 そして、アガトクレスの未亡人はセレウコスの元へ逃げ込み、セレウコスはリュシマコスのアジア領へ攻め込んだ。紀元前281年、リュシマコスとセレウコスはコルペディオンにて戦い(コルペディオンの戦い)、リュシマコスは敗死した。リュシマコスの遺体は彼の息子アレクサンドロスの元へ届けられ、リュシマケイアに埋葬された。
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