ラヴェンナ
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ラヴェンナ (Ravenna) |
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国 | イタリア | ||||
州 | エミリア=ロマーニャ | ||||
県 | ラヴェンナ | ||||
測地系 | 北緯: 44°25′0″ 東経: 12°12′0″ |
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標高 | 海抜 4 m | ||||
面積 | 652 km² | ||||
人口 | 153,551 2007年 | ||||
人口密度 | 232.82 人/km² | ||||
分離集落 | |||||
隣接コムーネ | アルフォンシーネ、 アルジェンタ (FE)、 バニャカヴァッロ、 ベルティノーロ (FC)、 チェルヴィア、 チェゼーナ (FC)、 コマッキオ (FE)、 フォルリ (FC)、 ルッシ | ||||
CAP(郵便番号) | 48100 | ||||
市外局番 | 0544 | ||||
ISTATコード | 039014 | ||||
IDコード | H199 | ||||
住人の呼称 | ravennati | ||||
守護聖人 | Sant'Apollinare | ||||
祝祭日 | 7月23日 | ||||
公式サイト |
ラヴェンナ(Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県のコムーネの一つで、ラヴェンナ県の県都である。
目次 |
[編集] 歴史
ヴェネト地方の住民が干潟を干拓して開いたとされ、88年にはアウグストゥスが軍港として使用した。
402年、西ローマ皇帝ホノリウスが、ミラノからこの街へ西ローマ帝国の首都を移し、西ローマ帝国が滅びた後は、476年に、テオデリックによって東ゴート王国の首都が置かれた。
6世紀に東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)がイタリアを征服するとイタリア統治の拠点となり、ユスティニアヌス1世はこの地にサン・ヴィターレ聖堂を建てた。540年皇帝マウリキウスはここに総督府を置き、引き続きイタリアにおける東ローマ帝国の拠点となっていたが、8世紀にランゴバルド王国によってラヴェンナ総督府は陥落。東ローマ帝国の北イタリア統治は終わりを告げ、以後は地方の小都市となった。8世紀半ば、フランク王国のピピン3世(小ピピン)がこの地をランゴバルト王国から奪い、ローマ教皇へと献上した。そのため、その後はローマ教皇領として教皇の支配下に入った。
[編集] 主な史跡
6世紀末からの急速な衰退と、その後ラヴェンナが重要な都市にはならなかったことによって、市内および郊外には、西ローマ、東ゴート王国および東ローマ帝国の文化遺産が点在する。これらの建築物はラヴェンナの初期キリスト教建築物群として1996年に世界遺産に登録された。
- ガッラ・プラキディア廟堂
- ローマ皇帝テオドシウス1世の皇女であるガッラ・プラキディアの霊廟とされる。5世紀半ばの建立。円天井はモザイクに覆われ、奥行きのある構図になっている。ビザンティン以前の古代ローマの影響が濃い。
- サン・ヴィターレ教会
- 6世紀初めに建設が計画され、東ローマ帝国の支配下であった548年に完成。金色のモザイクが八角形の堂内の後陣を飾り、様式的な初期ビザンティン美術の傑作である。ユスティニアヌス1世とその皇后テオドラのモザイク画で知られる。
- ネオニアーノ洗礼堂
- 5世紀初めの建立。5世紀半ばにはモザイクも施され、これはドーム中央にキリスト、その周りに12使徒、その下に旧約の預言者のレリーフへと放射状に続く。
[編集] 著名人
- ダンテ・アリギエリは、政争に敗れてフィレンツェを追放された後、1317年頃からラヴェンナにとどまり、『神曲』を完成させた。ダンテの墓は、ラヴェンナの中心街にある。同じダンテ・アリギエリ通りにダンテ博物館もある。
[編集] 姉妹都市
[編集] 関連項目
- ラヴェンナ・カルチョ - ラヴェンナを本拠地とするサッカークラブチーム
[編集] 外部リンク
- ラヴェンナ県のコムーネ
- アルフォンシーネ , カーゾラ・ヴァルセーニオ , カステル・ボロニェーゼ , コティニョーラ , コンセーリチェ , サンタガータ・スル・サンテルノ , ソラローロ , チェルヴィア , バニャーラ・ディ・ロマーニャ , バニャカヴァッロ , ファエンツァ , フジニャーノ , ブリジゲッラ , マッサ・ロンバルダ , ラヴェンナ , リオーロ・テルメ , ルーゴ , ルッシ