ラルフ・シューマッハ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | ドイツ |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | 1997年ジョーダン・プジョー '98ジョーダン・無限ホンダ '99ウィリアムズ・スーパーテック '00-'04ウィリアムズBMW '05-'07パナソニック・トヨタ・レーシング |
活動時期 | 1997 - 2007 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 170 |
優勝回数 | 6 |
通算獲得ポイント | 329 |
表彰台(3位以内)回数 | 27 |
ポールポジション | 6 |
ファステストラップ | 8 |
F1デビュー戦 | 1997年オーストラリアグランプリ |
初勝利 | 2001年サンマリノグランプリ |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | 2003年フランスグランプリ |
最終戦 | 2007年ブラジルグランプリ |
ラルフ・シューマッハ(Ralf Schumacher, 1975年6月30日 - )は、ドイツ生まれの自動車レーサー。元F1ドライバーで現在は、DTMに出場している。また、ミハエル・シューマッハの実弟。フォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンとしても知られている。レース時にはコンタクトレンズを使用する。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] F1参戦以前の経歴
兄ミハエルと同じくカート競技、フォーミュラ・フォードなどを経て、1994年にドイツF3初参戦、シリーズ3位に食い込み注目される。翌1995年もドイツF3に参戦。ノルベルト・フォンタナとチャンピオン争いを繰り広げるが、惜しくもシリーズ2位でこの年のシーズンを終えた。この年のマカオGPでは史上初めて、兄弟で優勝の記録を達成する(兄のミハエルは1990年に優勝)。同年、マクラーレンでF1をテストドライブする。
1996年、ミハエルの勧めもあり、ラルフは舞台を日本に移しフォーミュラ・ニッポン(Fニッポン)と全日本GT選手権(JGTC)に参戦。Fニッポンでは3勝を挙げ初代チャンピオンを獲得、マクラーレンF1 GTRを駆ったJGTCでもシリーズ2位と活躍。
[編集] F1での経歴
1997年、これもまたミハエルと同じく、ジョーダンからF1デビューを果たす。第3戦アルゼンチンGPで3位フィニッシュ、F1参戦からわずか3戦目で表彰台に上った。しかし、速さを見せつけたその一方で荒っぽいドライブも目立ち、17戦中10戦もリタイア。また、初表彰台のアルゼンチンGPでは先行していたチームメイトのジャンカルロ・フィジケラと絡みリタイアに追いやってしまった。
1998年も速さの一方、荒さは相変わらずであったが濡れた路面に対しての高い対応力を見せる。第13戦ベルギーGP、スパ特有の雨でレースは大荒れの中2位でフィニッシュ。同僚のデイモン・ヒルと共に、ジョーダンの記念すべき初優勝を1-2フィニッシュで飾った。
1999年からは名門ウィリアムズに移籍。同僚は、前年まで2年連続のCARTチャンピオンだったアレックス・ザナルディだった。ザナルディは期待に応えられず0ポイントでシーズンを終えた一方、シューマッハは3度表彰台に上り、第13戦イタリアGPでは自身初となるファステストラップも記録した。波乱のヨーロッパGPでは非力なスーパーテックエンジンを駆ってマクラーレンを抜くなど一時はトップを走る奮闘。結局この年のシューマッハは35ポイントを挙げ、シリーズ6位だった。
2000年からウィリアムズはBMWエンジンを搭載。ジェンソン・バトンと共に参戦したシューマッハは、開幕戦で3位表彰台と上々の滑り出しをみせるが、結局未勝利に終わる。
2001年からはチームメイトにCARTチャンピオンのファン・パブロ・モントーヤが加入。シューマッハは第4戦サンマリノGPで、移籍3年目にしてついにF1初勝利を挙げる。この年は最終的に3勝を挙げランキング4位。
翌2002年シーズンは、開幕からフェラーリが圧倒的な戦力を見せつけ独走。大苦戦のシーズンとなる。シューマッハは序盤の第2戦マレーシアGPでチーム唯一の勝利を挙げたが、モントーヤに獲得ポイントで上回られた。
2003年シーズンのシューマッハは2勝を挙げ、チームもコンストラクターズタイトルに手が届きそうであったが、僅差でフェラーリにさらわれる。シューマッハ自身は自己最多の58ポイントを獲得しシリーズ5位に食い込んだものの、モントーヤは表彰台9度で82ポイントと、チームメイトに対し大きく遅れをとってしまう。
このウィリアムズ在籍時代に、ラルフはトップドライバーの一人として認められるものの、チャンピオン争いをするには一歩足りない状況が続いた。またチームメイトのファン・パブロ・モントーヤを過剰に意識するあまり、レース中に同士討ちすることが幾度となくあった。
2004年のウィリアムズは、フェラーリはもとよりB・A・Rやルノー勢に対しても苦戦を強いられる。そんな中でラルフはアメリカGP決勝で、高速の最終コーナーで大クラッシュを起こし背骨を負傷、6戦欠場を余儀なくされ、結局この年は未勝利に終わる。またシーズン中に、翌シーズンからのトヨタ加入が発表され、6年間在籍したウィリアムズから離れることが決まった。また、同年の鈴鹿が兄のミハエルとの最後の1-2フィニッシュとなった。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。
シューマッハのF1キャリアにとって大きな転機となる2005年シーズン、第2戦マレーシアGPで5位フィニッシュ、トヨタでの初入賞を記録した。以後もコンスタントに入賞を記録し、ついにハンガリーGPで移籍後初となる3位表彰台を獲得した。また日本GPでポールポジション、中国GPで3位表彰台を獲得するなど終盤戦でも活躍して計14戦でポイントを獲得し、チームメイトのヤルノ・トゥルーリをドライバーズランキングで上回ることとなった。
2006年シーズンは、トヨタがタイヤをこれまでのミシュランからブリヂストンに変更し、序盤は対応に苦労する。第3戦オーストラリアGPでは兄・ミハエルのクラッシュ、後続から迫っていたモントーヤのクラッシュにも助けられ、チームにとってもラルフにとってもシーズン唯一の表彰台3位獲得。中盤~終盤にかけて、マシンパフォーマンスが上がってくるが、信頼性が伴わずリタイアが多発。この年もトゥルーリにはポイントで上回っている。
2007年は、マクラーレンとフェラーリが抜け、その後にBMWザウバーがつけるという上位6台はほぼ固いシーズンに。その中でトヨタは、上位3チーム以降で争うルノー、ウィリアムズ、レッドブル、スーパーアグリ、ホンダあたりと数少ない入賞枠を奪い合う激しい戦いに。特にヤルノ・トゥルーリは予選では常にその集団から抜けだしQ3に進出、一方でラルフはタイヤやマシンへの対応がうまく行かず低迷。ヨーロッパに戻ってからは予選でも安定してQ3進出を続け、ハンガリーGPでは今季最高の6位入賞を果たし復調傾向にある。日本GP(同年は富士)終了後の10月1日、2007年シーズン限りでのトヨタチーム離脱を発表した。トヨタでは、ウィリアムズ時代のような結果を出せず、「今が新しい挑戦を探すべきときだと思った」と言い残し、3年間在籍していたトヨタを離れ、ほかのチームに移籍することを決めた。12月6日ヘレスで行われたテストにフォース・インディアから参加しテストを行った。このテストでフォース・インディアのドライバーとしての起用のアピールしたと見られていたが、ラルフは「テストを行ったのは友人であるビジェイ・マリヤに頼まれていたからであって、私はフォース・インディアでレースをする気はない」[1]としている。又、2006年から契約をしていたマネージャーのハンス・マールとも袂を分かち、自身の兄であるミハエル・シューマッハからも引退を勧められたとされ、2007年シーズンをもってF1から引退した。兄・ミハエルは、「自分ら兄弟は、DTMを速く乗ることは難しい」と発言している。
[編集] DTMでの経歴
2008年は、メルセデスAMGチームで"MercedesBenz AMG-Cクラス"を駆り、DTMに参戦している。
[編集] 評価
デビュー当初から完走すればほぼ確実に入賞するもののリタイアも多く、『速いが荒いドライバー』と評価されることが多い。しかし、トヨタへの移籍後にはウィリアムズでのキャリア後半にしばしば見られたような、単純なミスによる自爆は少なくなり、耐えるところはしっかりと耐えられるドライバーへと成長した。トップチームとは言えない現在のトヨタで確実にポイントを獲得しており、現在のF1界を代表するドライバーの一人であったことは確かである。
[編集] F1での成績
(2007年第13戦終了時)
年 | 所属チーム | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | ジョーダン | 13 | 11位 | 3位・1回 | 1回 | 3位・1回 |
1998年 | 14 | 10位 | 2位・1回 | 2回 | 4位・1回 | |
1999年 | ウィリアムズ | 35 | 6位 | 2位・1回 | 3回 | 4位・1回 |
2000年 | 24 | 5位 | 3位・3回 | 3回 | 4位・1回 | |
2001年 | 49 | 4位 | 1位・3回 | 5回 | 1位・1回 | |
2002年 | 42 | 4位 | 1位・1回 | 6回 | 2位・3回 | |
2003年 | 58 | 5位 | 1位・2回 | 3回 | 1位・3回 | |
2004年 | 24 | 9位 | 2位・1回 | 1回 | 1位・1回 | |
2005年 | トヨタ | 45 | 6位 | 3位・2回 | 2回 | 1位・1回 |
2006年 | 20 | 10位 | 3位・1回 | 1回 | 3位・1回 | |
2007年 | 5 | 16位 | 6位・1回 | 0回 | 5位・1回 |
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ Ralf made up future F1 claims(autosport.com 2008年2月21日記事)