ヨークタウン (CV-5)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴 | |
---|---|
発注 | 1933年8月3日 |
起工 | 1934年5月21日 |
進水 | 1936年4月4日 |
就役 | 1937年9月30日 |
除籍 | 1942年10月2日 |
その後 | ミッドウェー海戦で沈没 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:19,800 トン 満載:25,500 トン |
全長 | 809 ft 6 in (247 m) |
艦幅 | 83 ft 1 in (25 m) |
全幅 | 114 ft (35 m) |
吃水 | 28.0 ft (8.5 m) |
機関 | 蒸気タービン4基 4軸, 120,000 shp(90MW) |
最大速 | 32.5 ノット |
航続距離 | 12,500 カイリ(15ノット時) |
乗員 | 士官、兵員2,217名 |
兵装 | 5インチ砲八基, .50口径機銃22基 |
搭載機 | 90機 |
エレベーター | 3基 |
カタパルト | 3基(飛行甲板2基、格納庫1基) |
ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) は、アメリカ海軍の航空母艦。ヨークタウン級航空母艦のネームシップ。その名を持つ艦としては三隻目。ミッドウェー海戦で沈没した。愛称は「オールド・ヨーキィ」
目次 |
[編集] 艦歴
ヨークタウンは1934年5月21日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1936年4月4日にエレノア・ルーズベルトによって進水され、バージニア州ノーフォークの海軍作戦基地において1937年9月30日に初代艦長アーネスト・D・マクウォーター大佐の指揮下就役した。
艤装完了後ヨークタウンはバージニア州ハンプトン・ローズで慣熟訓練を行い、1938年1月にはバージニア岬沖で新たに配備された航空団の訓練を行った。
1938年1月8日にカリブ海へ出航し、プエルトリコのクレブラに1月13日到着した。続く一ヶ月にも及ぶ試運転の間にヴァージン諸島セント・トーマス島のシャーロット・アマリィ、ハイチのゴナイブ、キューバのグァンタナモ湾、パナマ運河地帯のクリストバルを訪れた。クリストバルのコロン湾を3月1日に出航し、ハンプトン・ローズに6日に帰港した。翌日調整のためノーフォーク海軍工廠へ移動する。
1938年の秋いっぱいを使って修理と調整が行われ、ヨークタウンは10月17日に海軍工廠からノーフォーク海軍基地へ移動し、またすぐに南方に向かい訓練が繰り返された。
ヨークタウンは東海岸を拠点としてチェサピーク湾からグアンタナモ湾までの範囲で作戦行動を行う。1939年には第2空母部隊の旗艦として最初の対抗演習「 Fleet Problem XX 」に姉妹艦エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) と共に参加した。その演習の様子は重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) に乗艦したフランクリン・ルーズベルト大統領に目撃されている。
演習が終了するとヨークタウンは4月20日にハンプトン・ローズに帰還する。一週間後にパナマ運河を通過して太平洋艦隊に合流、定期的な作戦行動に入る。1940年はカリフォルニア州サンディエゴを拠点として活動し、同年4月には演習「 Fleet Problem XXI 」に参加した。
「 Fleet Problem XXI 」での結論でハワイ水域の艦隊勢力を維持するため、ヨークタウンは翌年の春までアメリカ西海岸、ハワイ海域で活動した。しかしながらドイツ海軍のUボートによる成功は、アメリカの海軍力変更を要求することとなった。大西洋艦隊強化のため、海軍はヨークタウンを含む主要戦力を移動させることとなる。
ヨークタウンは駆逐艦ウォリントン (USS Warrington, DD-383) 、ソマーズ (USS Somers, DD-381) およびジョーエット (USS Jouett, DD-396) と共に1941年4月20日に真珠湾を出港、パナマ運河を5月6日、7日に通過しバミューダに12日到着する。このときからアメリカ海軍は戦争状態に突入し、ヨークタウンはニューファンドランドからバミューダへかけての範囲を4回偵察し、アメリカが中立でいる間に17,642マイルを航海した。
[編集] 第二次世界大戦
日本海軍による真珠湾攻撃で、アメリカ太平洋艦隊は大敗を喫する。無傷の空母は戦略的な重要性を持つこととなる。1941年12月7日の時点で太平洋に配備されていた空母はエンタープライズ、レキシントン (USS Lexington, CV-2) 、サラトガ (USS Saratoga, CV-3) の三隻で、レンジャー (USS Ranger, CV-4) 、ワスプ (USS Wasp, CV-7) 、そして就役したばかりのホーネット (USS Hornet, CV-8) は大西洋にいた。ヨークタウンは1941年12月16日にノーフォークを出港し、太平洋に向かった。ヨークタウンには新たな20mmエリコン機銃が増設されていた。1941年12月30日にサンディエゴに到着し、新たに形成されたフランク・フレッチャー少将率いる第17任務部隊の旗艦となる。
ヨークタウンの太平洋での最初の任務はアメリカ領サモアへ海兵隊増援軍を運ぶ部隊の護衛であった。1942年1月6日にサンディエゴを出港し、ヨークタウンおよび僚艦はトゥトゥイラとパゴパゴへ向かう艦隊を警護した。
ヨークタウンとエンタープライズは1月25日にサモア海域に展開し、任務を遂行した。六日後にエンタープライズを中心に第8任務部隊が形成され、ヨークタウンを中心に第17任務部隊が形成された。第8任務部隊はマーシャル諸島に向かい、第17任務部隊はギルバート諸島に向かう。
[編集] 珊瑚海海戦
珊瑚海海戦においては日本機の至近弾によって損傷を受け燃料漏れを起こし、帰投不能に陥りかけるも、無事真珠湾に帰投した。 この戦いでは僚艦レキシントンを失った。 またこの時瑞鶴の嶋崎少佐が母艦である瑞鶴と間違えて、投光器による国際信号で着艦の許可を得て、250kg爆弾を投棄しヨークタウンに対して着艦体制に入るという珍事が発生している。
[編集] ミッドウェー海戦
1942年5月17日に、修理に最低90日かかると報告されていたヨークタウンを帰港後の調査で早期戦線復帰が可能であれば最低限の修理を真珠湾で行い戦列復帰させることが決定、これに伴い修理に必要な物資が大至急でかき集められた。ちなみにこの時集められた物資の中には酒保で使用する冷凍機や酒も含まれていた。27日に真珠湾に帰港すると、太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツ大将が直接損傷状況検分を行い、応急措置を施せば戦列復帰は可能と判断、3日で修理を行うよう命令した。修理は24時間体勢の突貫工事で、破損箇所に鋼板をツギハギで溶接、換気不十分で艦内温度が48.9℃の蒸し風呂状態といったいささか乱暴なものであったが、オアフ島の一部を停電にして海軍工廠に電力を優先に供給するよう調整するなど全面バックアップが取られ、2日後の29日11:00には穴は完全に塞ぎ終わりドックの外へ出す事が出来るまでに回復された。
同時に連戦続きで101日に渡って正規の補給無しで払底していた物資も大急ぎで補給された。ある砲術科の下士官は48時間ぶっ通しで爆弾搭載作業に当たったとの回想が残っている。一番重要な艦載機については珊瑚海海戦で消耗した第5雷撃隊(VT-5)と第5偵察隊(VS-5)は下ろされサラトガの飛行隊であった第3戦闘機隊(VF-3)、第3爆撃隊(VB-3)、第3雷撃隊(VT-3)が搭載された。残る元々の搭載機のうち第42戦闘機隊(VF-42)はVF-3に組み込まれ、第5爆撃隊(VB-5)は第5偵察隊(VS-5)と改称された。最終的に艦載機は
- 戦闘機:F4Fワイルドキャット25機。隊長:ジョン・S・サッチ少佐
- 爆撃機:SBDドーントレス37機。隊長:マックスウェル・レスリー少佐
- 雷撃機:TBDデバステーター12機。隊長:ランス・マッセイ少佐
となった。この時戦闘機は従来のF4F-3から新たにF4F-4が搭載されたが、F4F-4を整備した事がある整備士も整備マニュアルもなく整備は難航を極め、出航後も突貫で整備された。またパイロットも照準器の調整が必要、機銃を2門追加した事による運動性低下に対する完熟飛行は無し、都合3空母のパイロットの寄せ集めで1つの部隊としての訓練も無しという状態であった。日本軍が損傷軽微の瑞鶴の修理を急ぎ、翔鶴の飛行隊と併せれば何とか一隻出せる状態だったにもかかわらず、飛行隊を別の母艦に移すのは連携に難があるという理由と、そこまでしなくても楽勝という驕りから実現しなかったのとは対照的である。
最終的に機関部はボイラー全9基のうち6基が回復、30ノットが出せるようになり、5月30日8:00に司令官フレッチャー少将を乗せ真珠湾を出航した。
ミッドウェー海戦においては僚艦二隻の航空隊とともに日本軍の空母赤城、加賀、蒼龍を攻撃、撃沈する戦果を挙げるが、残る飛龍の航空隊の反撃にあって大破した。空襲終了後、消火作業に成功しハワイに向けて戦場から退避準備をしていたが、連絡を受けて遅れて戦場に入った日本潜水艦伊一六八によって6月7日午前4時ごろに発見された。総員は既に退避した後で、救援の駆逐艦より140名もの救助隊が乗り移り、駆逐艦ハムマン (USS Hammann, DD-412) を横付けして復旧作業の最中で、すでに機関も回復し自力航行も可能になりつつあった。厳重な警戒態勢であったが、伊一六八はその場で360度旋回をしたり、ヨークタウンや駆逐艦の真下を通過するなどして距離を計り、発見から9時間後の6月7日午後1時に4本の魚雷が発射された。ヨークタウンには2発の魚雷が命中。ハムマンにも1発命中し(伊一六八はハムマンの存在には気づいていなかった)、ハムマンは轟沈した。
護衛の駆逐艦からの反撃は熾烈を極め、伊一六八も大きな損傷を受けたが現場からの退避に成功した。ヨークタウンが沈没したのは、6月8日の午前六時ごろであったといわれる。処分の為に米駆逐艦から魚雷が打ち込まれたという記載もある。
ヨークタウンは第二次世界大戦での戦功により3つの従軍星章を受章した。2つは日本の拡張を止めるのに大きな役割を果たしたことに対して与えられ、もう1つは珊瑚海海戦とミッドウェー海戦での功績に対して与えられた。
伊一六八は、その後の戦闘によって戦没。しかし艦長は他の潜水艦に転勤となっていたため終戦まで生き延びた。戦後GHQからヨークタウン攻撃について執拗な調査があり、その慎重かつ大胆な攻撃方法に調査を担当した米兵も驚いたとされている。
1998年5月19日に、海底に眠るヨークタウンの船体が確認、撮影された。船尾から海底に衝突したために、最後部は変形しているが、それ以外では大規模な破損は見られていない。舷側部には魚雷命中穴も確認されている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Navy photographs of Yorktown (CV-5)
- National Geographic special on discovery of the Yorktown (CV-5) on the floor of the Pacific
ヨークタウン級航空母艦 |
---|
前級:レンジャー 次級:エセックス級 |
アメリカ海軍航空母艦一覧 | アメリカ海軍艦艇一覧 |