ユーリ・エゴロフ
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ユーリ・エゴロフ(Youri Egorov, 1954年5月28日 - 1988年4月15日)は、エイズで夭折した旧ソ連のピアニスト。オランダに亡命し、西側でゲイであることをカミングアウトした。
[編集] 経歴
ソ連のカザンに生まれる。6歳から17歳までカザン音楽院に学ぶ。
1971年に17歳でロン=ティボー国際コンクールで4位入賞。その後モスクワ音楽院で6年間ヤコフ・ザークに師事。1974年にチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で第3位に入賞、ブロンズ・メダルを獲得。1975年にはベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクールで3位入賞。
1976年、ソヴィエト体制に抑圧されているとの実感から、ローマで演奏旅行中に亡命を敢行。1977年にはヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに参加、最終選考に残らなかったものの、聴衆の支持を得る。落胆した聴衆の中には、怒りのあまり審査員に詰め寄って、優勝者と同じ1万ドルの賞金をエゴロフに授与すべきだと言い出す者さえ現れた。
1978年1月23日にニューヨーク・デビューを果たす。それから3日後のシカゴ・デビューは、批評筋から「世紀のデビュー」になぞらえられた。『ミュージカル・アメリカ・マガジン』誌 1978年7月号は、エゴロフを「今月の音楽家」に選んでいる。同年12月16日にはカーネギー・ホールにデビューし、その演奏はライヴ録音により残された。ハロルド・ショーンバーグはニューヨーク・タイムズ紙に寄稿して、エゴロフは「自由闊達なロマン様式の演奏をし、その解釈は、実に多くのコンクール勝利者たちとから全くかけ離れたものである」と述べた。
1979年8月に、エゴロフの2枚のアルバムがビルボード誌上において、クラシックのベストセラーLPとして言及された。
1980年代はもっぱらヨーロッパで演奏活動を行ない、アメリカ合衆国での最後のステージは、1986年・フロリダ州のリサイタルだった。
1988年、アムステルダムにてエイズによる合併症のため永眠した。享年33。没年までに14点の録音を制作しており、さらにいくつかのリリースが待たれているところだった。
[編集] 遺産
エゴロフは、イライズ・マック(Elyse Mach)博士が編纂した本 "Great Contemporary Pianists Speak for Themselves" の中で、博士のインタビューに応じて、リハーサルや、演奏前のあがり症、ソヴィエト・ロシアにおける芸術の抑圧、そして同性愛について語った。
影響を受けたピアニストとして、リヒテル、リパッティ、ミケランジェリ、ホロヴィッツ、グールドの名を挙げている。
バッハやスカルラッティのようなバロック音楽から、バルトークやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチやババジャニアンなどの20世紀音楽まで、エゴロフのレパートリーは広かったが、サヴァリッシュと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」や、「謝肉祭」をはじめとするシューマンの一連のピアノ曲、ドビュッシーの「前奏曲集」の録音は、とりわけ伝説的名演の一つに数えられている。