ミカエル7世ドゥーカス
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ミカエル7世ドゥーカス“パラピナケス”(ギリシア語:Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης (Mikhaēl VII Dūkas o Parapinakēs)、1050年 - 1090年?)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の皇帝(在位:1071年 - 1078年)。コンスタンティノス10世ドゥーカスとエウドキア・マクレンボリティサの子。“パラピナケス”は「4分の1を失った」という意味のあだ名。彼の治世中、それまで金貨1ノミスマ[1]で1メディムノス[2]買えたのが、物価上昇で4分の3メディムノスしか買えなくなってしまったことに由来する。
1065年、グルジア王女マリアと結婚。長男コンスタンティノス・ドゥーカスをもうけた。
1067年の父の死後、本来ならば彼が後を継ぐはずであったが、幼少であったために母が女帝として後を継いだ。しかし翌1068年、民衆や貴族の軍事政権樹立の希望により母は退位し、その母と結婚したロマノス4世ディオゲネスが後を継いだ。ところが1071年、そのロマノス4世が親征したマンズィケルトの戦いでセルジューク朝に大敗し、自身も捕虜となってしまったため、エウドキアは夫を廃して息子のミカエルを皇帝として即位させた。同年のうちにセルジューク朝から釈放されたロマノス4世は、ミカエル7世の即位を認めず抵抗したが、捕らえられて盲目にされた上で追放されてしまった(翌年、死去)。これによって敗戦後にロマノス4世とセルジューク朝が結んだ和議が反故になってしまい、セルジューク朝はこれを口実に帝国への侵略を開始し、これ以降、小アジア領の大半が奪われていくことになった。
ロマノス4世の大敗やその後の帝位をめぐる内紛を見て、帝国西方でも動きが起こった。1071年、ノルマン人が東ローマ領であったイタリア南部に侵攻し、同年のうちに最後の拠点であったバーリを陥落させた。こうしてユスティニアヌス1世の時代以来続いていた東ローマ帝国の南イタリア支配も終わりを告げた。
さらに相次ぐ内紛や戦争のため、帝国経済も大きく動揺した。宦官ニケフォリツィスを重用して穀物貿易を専売化し、穀物価格の統制を図ったが、これによって穀物価格のみならず一般の物価も上昇したため、怒った民衆は政府の倉庫を襲撃、破壊した。
1075年、妹テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナをヴェネツィア共和国の元首(ドージェ)ドメニコ・セルヴォへ嫁がせた。末妹ゾエは、アレクシオス・コムネノスの弟アドリアヌスと結婚した。
帝国内部においても、ノルマン人傭兵隊長ルセール・ド=バイユールやニケフォロス・ブリュエンニオス、ニケオフォロス・ボタネイアテスなどの軍事貴族の反乱が各地で続発した。このような中、1078年1月7日、首都コンスタンティノポリスの民衆はハギア・ソフィア大聖堂で、まだ小アジアにいたニケフォロス・ボタネイアテスを皇帝に擁立。ニケフォロス・ボタネイアテスは首都へ向って進軍した。これに呼応して首都では反乱が起こり、ミカエル7世は退位し、修道院へ入った。
[編集] 注
東ローマ帝国ドゥーカス王朝 | ||
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先代 |