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ホレーショ・ネルソン - Wikipedia

ホレーショ・ネルソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ホレーショ・ネルソン
1758年9月29日 - 1805年10月21日
ホレーショ・ネルソン
生誕地 イギリス・ノーフォーク
死没地 スペイン・トラファルガー岬沖
所属組織 大英帝国海軍
軍歴 1778年 - 1805年
最終階級 提督
部隊 地中海艦隊司令官
戦闘 トラファルガーの海戦
賞罰 叙勲多数
ネルソン記念柱

ホレーショ・ネルソンHoratio Nelson, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)は、アメリカ独立戦争ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死した。


目次

[編集] 生涯

ノーフォーク、バーナム・ソープ村の教区牧師の第六子として生まれた。母方の叔父のモリス・サクリングが海軍の軍人であった。ウォルポールとも遠縁にあたる。12歳の時(1770年)、父が病床にあり家計が逼迫していたこともあって、戦列艦の艦長だった叔父を頼って海軍に入り、北洋探検航海などに参加した。1774年から東インド方面に勤務するが、マラリアにかかって帰国する。

1777年、海尉昇進試験に合格。翌1778年には海尉艦長として初めての指揮艦を得る。1779年に21歳で勅任艦長となる。1784年、最先任艦長(副司令官格)として小アンティル諸島の鎮守府に赴任。独立後間もなかったアメリカ商船の取り扱いなどをめぐって、現地の上官や農場主たちとの間で摩擦を起こす。1787年西インド諸島のネヴィス島で知り合った、未亡人フランシス・ニズベットと結婚。

1793年フランス革命戦争の勃発により、戦列艦アガメムノンの艦長に任ぜられ、地中海方面に展開。10月にフランス艦との戦闘を初めて経験する。1794年コルシカ島で陸上戦闘を指揮し、カルヴィ攻略戦で右目の視力を失った。

[編集] サン・ビセンテ岬

1796年、新任の地中海艦隊司令官ジョン・ジャーヴィスのもとで戦隊司令官に任ぜられる。1797年サン・ビセンテ岬の海戦に参加。後方の戦列を担っていたが、艦隊司令官の命令を無視して逃走するスペイン艦隊へ突入、激しい砲火をまじえ、結果として2隻の敵艦を拿捕した。この功績でバス勲爵士に叙せられ、青色艦隊少将へ昇進する。

同年、カナリア諸島テネリフェ島の攻略に失敗する。戦闘で右腕を負傷し切断。こうして隻眼隻腕の提督となった。

[編集] ナイル

1798年、地中海分遣艦隊を率いてツーロンで、エジプト遠征を企てるナポレオンのフランス艦隊の封鎖任務にあたるが、嵐をさけて寄港していた隙に仏艦隊の出港を許してしまう。その後も追跡を続けたが、フリゲートの不足などの悪条件もあって、結果的にナポレオンのエジプト上陸、アレキサンドリア入城を許すことになった。

しかし、アブキール湾停留中だったフランス艦隊を発見すると、浅瀬を背にして縦陣をしく当時としては万全とされていた防御姿勢をとる同艦隊に対して、自分の艦隊を艦と艦の間をすりぬけさせ、狭撃するという戦術でこれを撃滅してのけた(ナイルの海戦)。この海戦の敗退によって、フランス海軍には、ネルソン恐怖症が広がり、後にトラファルガーにまで引きずることになる。

これにより、ナポレオンはヨーロッパへの帰路を絶たれエジプトに孤立し、やがてその東方進出の野心は潰えることになる。ネルソンはこの戦功によって「ナイル及びパーナム・ソープのネルソン男爵」に叙せられる。

[編集] コペンハーゲン

1801年、青色艦隊中将に昇進。副司令官としてコペンハーゲンの海戦を指揮。あまりの激戦に司令官であるハイド・パーカーが「戦闘中止」を命じた信号旗を、見えない右目に望遠鏡を当てて黙殺した逸話が有名だが、厳密にいうとこれは「必要なら戦闘中止せよ」の信号を、副司令官のネルソンがその必要なしと各艦に転送しなかったということである(ちなみに、これは黙殺したネルソンをパーカーが庇った、という説もある)。ともあれ、それほどの戦いを辛くも勝利し、彼は戦功によって子爵に叙せられる。

[編集] トラファルガー

詳細はトラファルガーの海戦を参照

1803年、地中海艦隊司令官。

1804年、白色艦隊中将。

1805年、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー岬沖に捕捉、二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑む、いわゆる「ネルソン・タッチ」で勝利をおさめる。

戦闘開始を告げ、兵士たちを鼓舞した“England expects that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を全うすることを期待する)の信号旗は、現在も名文句として残る。ネルソン自身は“Nelson convinced that every man will do his duty”(ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する)としたかったのだが、続けて「接近戦を行え」の指示を送らなくてはならなかったので、信号士官の進言を受け、より少ない旗ですばやく信号をおくれる、「英国は~期待する」の方を採用したものだった。後に名文句となるも、命令的で尊大な文章であるため、この時は「いまさら言われなくても義務は果たしている」と不満の声があがったり、水兵の士気に悪影響を与えると考えて、内容を伝達しなかった艦長もいた。次席指揮官のコリングウッドは、戦闘開始寸前に、戦闘指揮とは関係無い信号の伝達に不満を感じたと書き残している。

一方で連合艦隊のヴィルヌーブ提督も接近戦を狙うネルソンの意図は察しており、各艦に狙撃手を配置していた。特にリュカ艦長などの一部艦長は砲撃よりも小銃射撃・切込みによる水兵殺傷を主眼としており、ネルソン自身はその戦勝と引き換えに狙撃され、戦死する。旗艦「ヴィクトリー」上で指揮を執るネルソンは4つの勲章(正確にはそれを模した布製のレプリカ)を胸にしており、狙撃をおそれた副官らからコートを羽織るように進言されても、「立派な行いでこれをもらったのだ、死ぬ時もこれをつけていたい」と退けた。

ただ、実際当時のマスケット銃でネルソン個人(或いは高級将校個人)を狙った狙撃というのは困難で、恐らく切込み突撃に備えて射撃していた海兵隊の視界に偶然入って狙撃されたというのが正しい解釈である。実際、彼以外の多くの将官も目立つ格好をしていた。

[編集] 死後

ネルソンの遺骸は腐敗を防ぐために、樽に入れてラム酒漬けにして本国まで運ばれた。しかしそのネルソンを漬けたラム酒は、水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。一説によると、偉大なネルソンにあやかろうとした行動だったという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることもある。もちろん、単なる蒸発と言う可能性もある。

翌年、君主以外では初となる国葬としてセント・ポール大聖堂に葬られた。

現在でもネルソンはイギリスの英雄として称えられ続けており、ロンドントラファルガー広場中心にはネルソン記念柱が据えられている。

[編集] 影響

ナイルの海戦にあたって、「明日の今頃にはウェストミンスター寺院に葬られるか、貴族となっているかだ」との言葉を残している。

この発言に象徴されるように、終生艦隊決戦に重きをおいた。この考え方は海尉時代のかなり早い時期からのものだったらしく、「自分が艦隊指令官だったら、敵艦をすべて沈めるか、自分の艦をすべて沈められるかどちらかだろう」との手記も残っている。

これは、相当数の艦艇を保有してさえいれば、それだけで敵対国への圧力となるとする当時の「艦隊保全主義」に反するものだったが、ネルソンが実戦での実績を重ねるうち、海軍のみならず英国民すべての認識となっていった。逆に、敵艦隊と交戦し、一定の戦果を得ながら、艦隊の保全を重視して追撃戦を行わなかった提督が軍法会議にかけられるような事例も生じた。ネルソン自身はそうした提督を擁護する立場を取った。

ジョゼフ・コンラッドは、ネルソンひとりのために海戦の意味や勝利の基準まで変わってしまったと賞した。

「19世紀のイギリスに海軍などなく、ただ偉大なネルソンの亡霊のみがそこにいた」と、ネルソンの海上権制覇に安穏としすぎたことが、20世紀におけるイギリスの没落を招いたとする見方もある。

[編集] 逸話

  • 艦隊司令官でありながら生まれつき船酔いに弱かった。
  • 対ナポレオン戦争におけるイギリスのもう一人の英雄ウェリントンとは、一度だけまみえたことがある。ウェリントンによる回想では、植民省を訪れ大臣との面会を待っている時に控え室で出会ったのだが、ウェリントンは隻眼隻腕のネルソンをすぐに彼と気付いたものの、ネルソンはようやく陸軍少将に昇進したばかりのウェリントンをまったく知らず、当初、その会話はネルソンの一方的なものだったという。しかし、やがてネルソンもウェリントンの軍服などからそれなりの人物であると察したらしく、態度をあらためて対ナポレオン戦略などの自説を披露、その変わり身振りと説く所の正しさとで、ウェリントンは大いに驚かされたとしている。
  • 人妻エマ・ハミルトンとの不倫は現在においても有名である。夫・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン卿は妻の浮気を知りながらも、ネルソンは英国にとって必要な人材であるとしてそれを黙認し、ネルソンとの間にも友情を保っていたという。またネルソンはエマに走って以降も、自分の妻が経済的に困窮しないように、十分な経済援助を続けていたという。
  • 1801年にエマは女児を出産している。ホレイティアと名付けられたこの娘は、ヴィクトリア女王の治世までの長寿を全うするが、終生自身がネルソンの子であることは否定し続けた。

[編集] 映画

[編集] 関連書籍

  • ロバート・サウジー『ネルソン提督伝』 山本史郎 訳、原書房、2004年、ISBN 4562037806(上巻)、ISBN 4562037814(下巻)

[編集] 関連項目

ウィキクォート
ウィキクォートホレーショ・ネルソンに関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズ


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