ピエトロ2世
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ピエトロ2世(Pietro II di Sicilia, (1305年7月 - † 1342年8月15日カラシベッタ)。 フェデリーコ2世の息子で1321年、「トリナクリア王」。1337年よりシチリア王(在位1321年 - 1342年)。アラゴン家に属するため、スペイン風にペドロ2世と呼ばれる事もある。
[編集] 生涯
ピエトロは1305年にアラゴンのフェデリーコと、ナポリ王カルロ2世の娘エレオノーラの間に生まれた。
1321年に、父フェデリーコはピエトロにトリナクリアの王位を委ねた。カルタベッロッタの協定の影響を無効にする試みの中で、協定はアンジュー家に王位が戻るのを予感させた。このことはシチリアでの晩祷の反乱とともに始まる闘争に続くものであった。実際には、ピエトロがシチリアを完全に統治下においたのは、父が死んだ1337年以後の事であった。
ピエトロは1323年4月23日、ケルンテン公オットー2世の娘エリーザベト(エリザベッタ・ディ・カリンツィア、Elisabetta di Carinzia)と結婚した。 以下は子供たち:
- ルドヴィーコ(Ludovico) - トリナクリア王
- フェデリーコ(Federico) - トリナクリア王
- レオノーラ(Leonora, 1325年 - †1375年) - アラゴン王ペドロ4世と結婚し、マルティーノ2世の母となる。
- ベアトリーチェ(Beatrice) - プファルツ選帝侯ループレヒト2世と結婚し、ドイツ王ループレヒトの母となる。
- コスタンツァ(Costanza) - 1352年から1354年まで摂政。
- エウフェミア(Eufemia, 1330年 - 1359年) - 1355年から1357年まで摂政。
- ヴィオランテ(Violante, 1334年 - ? ) - 夭折。
- ジョヴァンニ(Giovanni, 1340年 - 1353年) - 王子。
- ビアンカ(Bianca, 1342年 - 1373年) - 王女。
ヴェンティミリア家、パリッツィ家、キアラモンティ家、アンティオキア家などの勢力が知られている貴族と王家との強い対立は、ピエトロ2世の王国の特徴だった。いくつかの状況において、王はこれらの家に立ち向かうことができず、大きな権力や国有地を彼等に譲ることを余儀なくされた。
ピエトロ2世は1342年8月15日に王国を長男のルドヴィーコに遺し、カラシベッタにて突然死んだ。王国が彼の手にあったのはたった5年間だった。そしてパレルモの大聖堂にある、先祖フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)の棺に埋葬された。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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