ハーマン・リベラ
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国籍 | プエルトリコ |
身長 体重 |
188 cm 88 kg |
守備位置 | 一塁手、三塁手 |
投球・打席 | 右投右打 |
背番号 | 33 |
経歴 | ロサンゼルス・ドジャース- ヒューストン・アストロズ- 近鉄バファローズ |
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ハーマン・リベラ(German Diaz Rivera , 1960年7月6日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手。近鉄バファローズに在籍していた。ポジションは内野手(主に一塁と三塁)。右投右打。背番号は33。
目次 |
[編集] 来歴・人物
ホセ・ラザロ高から1983年にロサンゼルス・ドジャースに入団。1985年にヒューストン・アストロズに移籍。1989年シーズン開幕直後の4月12日に近鉄に入団し、パット・ドッドソンと入れ替わりで出場選手登録するやいきなり4番サードでスタメンデビュー。この年1年限りの在籍となったが、終盤に貴重な本塁打を放つなど4番打者として勝負強さを発揮しリーグ優勝に貢献した。
[編集] 所属チーム
- 1983年~1984年 ロサンゼルス・ドジャース
- 1985年 ヒューストン・アストロズ
- 1988年 リッチモンド・ブレーブス(アトランタ・ブレーブス傘下 3A)
- 1989年 近鉄バファローズ
[編集] 打撃成績
(カッコ( )内の数字はリーグ打撃成績の順位)
年度 | チーム | 背番号 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率 |
1989年 | 近鉄 | 33 | 123 | 473 | 70 | 123 | 18 | 0 | 25 | 79 | 4 | 0 | 4 | 46 | 69 | .260 (25) |
[編集] 記録
- 最多勝利打点 16点(1989年) ※非公式記録
[編集] エピソード
- 4番を期待された新外国人のドッドソンが全く活躍できなかったことに加え、レギュラーの三塁手を務めていた金村義明が前年に負った骨折からの回復が予想よりも長引いたため、三塁を守れる外国人として開幕後に急遽獲得した選手である。
- 元ボクサー(アマチュアチャンピオン)という経歴を持つ。ボクサー時代の通算成績は24戦24勝15KO。まるでボクシングのフックのような内側にねじり込むバットスイングを行っていた。それもあってか、大振りせずコンパクトなスイングとなっていたのでミートの技術に長けており、三振は少なかった。対オリックス・ブレーブス戦で関口朋幸から危険球を受け乱闘となった際関口に殴りかかり全治1週間のケガを負わせた。
- 選球眼もよく、滅法勝負強かったので決勝点を叩き出すことが度々あり、勝利打点で同僚のラルフ・ブライアントを上回ったばかりか、最終的に1989年のパシフィック・リーグ最多記録となった。しかし、1988年をもって勝利打点の記録が廃止されていたために公式記録と認められず、わずか1年違いで公式記録保持者になる権利を逃した。
- 勝負強いリベラを避けたいがために、三振が非常に多い前打者のラルフ・ブライアントに勝負を挑んだ結果、被弾してしまう投手が続出した。ブライアントが本塁打を量産した誘因の一つがリベラの存在だった。
- 本塁打を放つと両手でバットを真上にポーンと放り投げ、ガッツポーズをしながら塁を回り、本塁に到達するとお出迎えの藤瀬史朗一塁ベースコーチの頭をポンポンと軽く叩くのが恒例だった。
- 応援歌の元曲は日本たばこ産業のたばこブランド「リベラマイルド」のCM曲。
- 1989年10月5日、当時の近鉄球団のオーナーであった佐伯勇が逝去、また同日の対オリックス戦に敗れた近鉄は自力優勝が消滅し、チームの空気が沈んでいた。しかし翌10月6日の対オリックス戦、延長10回、リベラはその重苦しい空気を振り払うサヨナラ3ランホームランを放ち、快勝した。試合後のコメント「このホームランを、妻とおなかの子と、故佐伯オーナーにささげる」。
- 1989年10月10日、最後の天王山、西武ライオンズとの直接対決3連戦の第1戦。西武・渡辺久信と近鉄・山崎慎太郎の息詰まる投手戦は、8回表のリベラのソロホームランが決勝点となり、大事な初戦に勝利した(この試合、リベラだけが先発野手でただ一人、渡辺から三振を奪われていなかった)。
- 1989年10月12日の対西武ライオンズ戦(ダブルヘッダー)。優勝争いを左右する重要な大一番で、第2試合の1打席目に先制のタイムリーヒットを放ち、2打席目には4打数連続本塁打を放っていたラルフ・ブライアントに続く2者連続となる本塁打をレフトスタンドに叩き込み、西武の先発だった高山郁夫をマウンドから引きずり下ろした。その直後鈴木貴久がさらに2ランホームランを放ち、1イニングで一気に点差が4に広がった。これによって西武ナインは意気消沈し、近鉄の勝利へと繋がった。
- 1989年10月14日の対福岡ダイエーホークス戦。この日勝利すれば近鉄の優勝が決定する試合となったが、5回裏にダメ押しとなるソロホームランを放り込んで、優勝を決定付けた。その時リベラは手を叩きつつスタンドのファンに対して満面の笑みを浮かべながら、いつも以上に大きなガッツポーズをして見せた。藤井寺球場の近鉄ファンはこれでいよいよ優勝を確信し、球場全体がお祭り騒ぎとなった。
- 1989年10月28日の巨人との日本シリーズ第6戦で4回桑田真澄からソロホームランを放った。
- バッティングが勝負強かった反面、守備は上手とは言えずエラーが多かった。
- 1989年の近鉄優勝に多大な貢献をしたが、球団が契約を更新しなかったので同年限りで退団した。更新しなかった理由は本人が再びメジャーリーグを目指していたとも、金銭面の問題で球団の翌年の構想から外れていたからとも言われているが、定かではない。
- 後にタフィ・ローズら多くの優良外国人を発掘し、渉外担当として近鉄に貢献した市原稔が初めて獲得した外国人選手である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- メジャーリーグでの通算成績(英語)