ハワード・ヒューズ
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ハワード・ヒューズ(Howard Robard Hughes, Jr., 1905年12月24日 - 1976年4月5日)はアメリカの実業家・映画製作者・飛行家で、20世紀を代表する大富豪として知られ、「資本主義の権化」、「地球上の富の半分を持つ男」と言われた。
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[編集] 来歴
テキサスのヒューストンで、名家出身の母エイリーン・ガノ・ヒューズ(Allene Gano Hughes)とハーバード大学法学部出(中退)の父、ハワード・ロバード・ヒューズ・シニア(Howard Robard Hughes, Sr. ビッグ・ハワード)の間に生まれる。父のビッグ・ハワードは、弁護士資格は持っていたものの、地道に働くのが性に合わず一攫千金を夢見て鉱物の掘削に取り組む。浮き沈みの激しい生活であったがハワードが3歳のとき、ドリルビットの特許と共にシャープ・ヒューズ・ツール社を設立(後のヒューズ・ツール社)し、同社が製造したビットは、それまでのものとは桁違いの掘削能力を発揮しヒューズ家に大金をもたらした。
ハワードを溺愛していた父親の不在、父方の遺伝による難聴もあいまって、内向的な性格となる。学業にはほとんど興味を示さず、飛行機・レーシングカー・ハム無線機に魅力を感じる。1922年、ヒューズが16歳のとき母エイリーンが病死、2年後に父ビッグ・ハワードが急死する。孤児となるが、同時に遺産として871,000ドルと評価されたヒューズ・ツール社の株 (75%) と当時、ほとんどの石油・ガスの掘削機が使用していたドリルビットの特許を手に入れる。
1925年にカリフォルニア州に移り、父から受け継いだ莫大な遺産を元に1927年、かねてからの夢であった映画製作をはじめる。
結婚歴は3度有り、1度目は19歳の時、エラ・ライスと、2度目は44歳の時、女優:テリー・ムーアと、3度目は52歳の時、女優:ジーン・ピーターズとである。
ハワードは1957年1月12日から1971年6月まで約14年半の間、テリー・ムーアとジーン・ピーターズと重婚していたことになった(ハワードの死後、テリー・ムーアがハワードとはメキシコ沖の公海上のヨットで極秘に結婚し、離婚はしていないという主張が認められた為)。
[編集] 映画製作者
[編集] 地獄の天使
当初はハリウッドの映画界にコネもない上、映画制作の経験もないためその手腕は疑問視されたが、その後、1928年に製作された『暴力団/The Racket』でアカデミー賞最優秀作品賞候補にノミネートされた他、史上初めて製作費が100万ドルを超えた超大作『地獄の天使/Hell's Angels』(1930年)や、『暗黒街の顔役/Scarface』(1932年)などのヒット作の制作を手がけるなど、数々の成功を収めた。
第一次世界大戦のパイロット達を描いた作品である『地獄の天使』は、87機の第一次世界大戦当時の戦闘機や爆撃機を購入し実際に飛行させ撮影するなど、当時としては破格の100万ドルを超える製作費をかけた超大作で、公開当時大ヒットしたものの、結局その製作費を回収することは出来なかった。なお、この映画の撮影には2年の年月がかかった上、撮影中の事故で3人のパイロットが死亡している。
[編集] RKO
1948年には当時の有力映画会社の一つで、経営危機に陥っていたRKO(ラジオ・キース・オヒューム、Radio-Keith-Orpheum) 社を880万ドルかけ買収し傘下に収め、制作・配給体制を強化している。買収後は『征服者』(1956年)や『ジェット・パイロット』(1957年)などのヒット作を送り出すものの、経営状態を改善するまでには至らず、その後トランス・ワールド航空の経営資金を捻出するためもあり、売却することになる。
[編集] プレイボーイ
また、映画制作の傍ら、キャサリン・ヘプバーンやエヴァ・ガードナー、ジーン・ハーロウなど数々のハリウッド女優やセレブリティらと浮名を流したことでも有名であった。また、自らの趣味をかねて新人女優(その多くが胸の大きな女性であった)を発掘し、育て上げる手腕は評価が高かった。
[編集] 飛行家
[編集] ヒューズ・エアクラフト
そんなヒューズが映画の他に情熱を傾けたのは、当時の技術の最先端を行く航空産業であった。手始めに1935年には自らの名を冠した航空機製造会社、ヒューズ・エアクラフト社を設立した。
1937年には自らの操縦によりニューヨーク - ロサンゼルス間を7時間29分25秒で飛行、当時のアメリカ大陸横断記録を樹立した。1938年にはわずか91時間で世界一周飛行を行い、こちらも当時の最速記録を樹立した。その後1939年には、当時のアメリカを代表する大手航空会社の一つである「トランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空」(T&WA) を買収、その後自社が導入した大型旅客機ロッキード・コンステレーションやコンベア880などの最新鋭機の開発に関わるなど、次々と自らの夢を叶えてゆく。
[編集] スプルース・グース
その集大成とも言えるのが、H-4 ハーキュリーズ 飛行艇である(ハーキュリーズはギリシア神話の英雄であるヘラクレスの英語読み)。大部分が木製のため、「スプルース製のガチョウ(スプルース・グース)」とも呼ばれたこの機体は、1947年の完成当時、世界最大の航空機であり、2006年現在までのところ、これよりも大きな翼幅の飛行機は製作されていない(関連: 世界一の一覧)。
当初はアメリカ軍向けの輸送機として開発されたものの、第二次世界大戦の終結により購入契約が破棄された。にもかかわらずヒューズが全力を傾けて作り上げたこの巨大な飛行艇は、わずか1機だけが製造され、完成後はヒューズ自らの手でわずか1回飛行しただけで、その後はカリフォルニア州のロングビーチ港に永く展示された。現在はオレゴン州マクミンビルにあるエバーグリーン航空博物館で展示されている。
[編集] TWA
1946年には、自らが開発に関わった高速偵察機 XF-11を操縦中に、機体が故障しロサンゼルス郊外のゴルフ場に不時着を試みるが失敗、住宅地に不時着し大怪我を負うが、それでも飛行機への情熱は失わなかった。 1950年には「トランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空」を、本格的な国際線進出に合わせてトランス・ワールド航空 (TWA) と改名。同社をライバルのパンアメリカン航空と並び、アメリカを代表する航空会社の一つに成長させた。
最終的に1966年に同社を手放すものの、その後も国内航空会社のエア・ウェスト航空を傘下に収めるなど(その後ヒューズ・エア・ウエストに改名)、生涯を通じて航空産業とは深い関係にあった。
[編集] 政治家との関係
ヒューズの政治家との関係で特筆すべきものは、リチャード・ニクソンとの親密な関係である。ヒューズがニクソンの選挙に莫大な献金をしていたのはよく知られた事実である。1971年にはヒューズがニクソンに選挙と全く関係のない資金が流れた事実がジャーナリストのジャック・アンダーソンにより明らかになった(もしこれが事実であれば犯罪となる)。これはちょうどウォーターゲート事件の真っ最中だったので、ウォーターゲート調査委員会(アーヴィン委員会)はこの件に関して調査を行ったが、いつ、どこで、どのように資金が渡されたか決定的な結論は得られなかった。
また、ヒューズはマフィアとの関係の強かったジョン・F・ケネディに対して嫌悪感を抱いていたといわれる。特にケネディの進めた公民権プログラムに対して強い反感を抱いていた。
[編集] 晩年
[編集] 強迫性障害
様々な事業を手がけ、多才な大富豪として富と名声を手にしたヒューズであったが、その晩年は孤独であった。1946年の墜落事故に痛み止めとして使われた麻薬(コデイン)の虜となり、深刻な精神衰弱となった。以前から強迫性障害と思われる行動を繰り返していたが、年を取るにつれて拍車がかかった。
極度に細菌を恐れるようになり、トランス・ワールド航空を売却した資金で、1966年にネバダ州のラスベガスにある有名なカジノホテル、デザート・インを買収すると、完全に除菌された最上階のスイートルームから、殆ど外出しなくなる。
強迫性障害により、ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れなかったり、手を洗い始めると擦り切れて血が出るまでその動作をやめられなくなるため、一切の入浴や手の洗浄が事実上不可能になったとも言われている。そのため、髪と髭は伸び放題で体は垢にまみれ、耐え難い異臭を放っていたという。
[編集] 孤独な死
1976年2月10日、ラスベガスからメキシコのアカプルコ・プリンセス・ホテルのスイートルームに本拠を移す。1976年4月5日昏睡状態に陥り、治療のためメキシコからアメリカに戻る際に死亡。71歳であった。
190cmあった長身は薬物乱用のため10cm以上縮み、体重はわずか42kg、その容貌(ミイラそのものだった)からはヒューズと判定できず、FBIによる指紋照合が行われた。その亡骸は生まれ故郷テキサス州ヒューストンの墓地に埋葬されている。死因は脳血管障害、心臓病などがあげられている。
また、ヒューズは明らかな遺書を残さなかったため、彼の残した天文学的な財産を処理するためには莫大な労力とおよそ20年もの歳月が必要であった。 ヒューズの死の3週間後、ヒューズの遺言状とされるものがガソリンスタンドの店員en:Melvin Dummarに届けられる。その内容は、放浪の中でホームレス生活を送った際に、その間1ドルを恵んでくれたMelvin Dummarに1/16の遺産を残すというものであった。 しかしこの遺言状は最終的に無効とされた。詳しくは英語版記事を参照。
その他、過去の伴侶達にも遺産は贈与された。
[編集] ハワード・ヒューズ医学研究所
1953年に保有するヒューズ・エアクラフト社の全株式を拠出してハワード・ヒューズ医学研究所を設立した。非課税の慈善団体にヒューズ・エアクラフト社の株式を移すことによって租税回避を行いつつ、研究所を介して同社の経営権を維持することが目的だったとされる。ヒューズの死までは、その資産と比較して事業規模(研究資金の拠出額)は大きなものではなかった。事業規模が拡大したのはヒューズ死後のことである。
現在、研究所は、生物医学分野における大学学部教育の助成から大学院生への奨学金、将来性のある若手研究者(特にマイノリティ・女性)への助成、トップクラスの研究者への資金提供まで、広範な助成活動を行っている。とりわけ、トップクラスの研究者に対して重点的に多額の資金提供を行っている。
研究費の提供は、研究助成金(グラント)ではなく、大学等に所属する研究者を在籍のまま同研究所の研究員として雇用するかたちで行われる。研究員ひとりあたり平均年間研究費は約100万アメリカドル。2005年9月現在、財産総額148億アメリカドル、年間事業総額4億8300万アメリカドルで、ビル&メリンダゲイツ財団に次ぐ全米第2位の慈善団体、イギリスのウェルカム・トラストに次ぐ世界第2位の医学研究財団である。
研究員から多くのノーベル賞受賞者を輩出している。所長トーマス・チェック(コロラド大学ボールダー校教授)、理事長ハンナ・グレイ(シカゴ大学名誉教授)、本部はメリーランド州チェビーチェイス。
[編集] 「アビエイター」
2004年製作(日本公開は2005年)、アカデミー賞5部門を獲得したマーティン・スコセッシ監督の大作『アビエイター』で、アメリカ人俳優レオナルド・ディカプリオが、ヒューズの生涯を演じアカデミー賞主演男優賞候補になった。ディカプリオ自身の受賞はかなわなかったものの、作品自体は5部門獲得した。
作品内では、上記のようなヒューズの生涯のエピソードに加え、フィクションながら数々の女優との華やかな恋愛や失恋、リスクを厭わない莫大な投資と破天荒なまでのビジネス手法、正に命懸けの成功を収めていく影で彼自身は心を病み、強迫性障害に苦しめられ、全裸で試写室にこもり、乱心(牛乳瓶に排泄したり、映画を見て苦しむなど)する姿が描かれている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク