デレック・ワーウィック
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F1での経歴 | |
国籍 | イギリス イングランド |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | トールマン, ルノー, ブラバム, アロウズ, ロータス, フットワーク |
活動時期 | 1981 - 1990, 1993 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 147 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 71 |
表彰台(3位以内)回数 | 4 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1981年アメリカGP |
初勝利 | - |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1993年オーストラリアGP |
デレック・スタンリー・アーサー・ワーウィック(Derek Stanley Arthur Warwick、1954年8月27日 - )はイギリスハンプシャー州アレスフォード出身の元レーシングドライバー。
「Warwick」は正しくは「ウォリック」だが、「ワーウィック」表記が定着している。
目次 |
[編集] プロフィール
ドライバー経歴の初期においては、1976年にイギリスFF1600でチャンピオンを獲得。翌1977年からイギリスF3に参戦し、1978年には4勝を挙げチャンピオンを獲得。翌1979年よりヨーロッパF2にトールマンから参戦し、1980年にはランク2位を獲得している。
[編集] F1
[編集] トールマン時代
1981年、トールマンチームと共にF1に進出。第4戦サンマリノGPからエントリーするも、新興チームということもあり苦戦し、予選落ちが続いた[1]。最終戦アメリカGPにてようやく予選を通過しデビューとなるが、決勝での完走はならなかった。
1982年も予選落ちこそ減少したものの、マシンに速さ・信頼性共に足りない状況は変わらず、完走は2回だった(最高位:10位)。ただし第9戦オランダGPでは、初のFLをマークしている。またチームメイトのテオ・ファビに対し、予選で10勝3敗[2]と圧倒、予選落ちもファビの6回に対し2回に抑えた。
1983年には前年までと比べマシン性能が向上、開幕戦ブラジルGPでの5位グリッドをはじめ、予選では度々上位に食い込むようになる。決勝はトラブルの多さからリタイヤが多く、第11戦オーストリアGP終了時点では完走2回・入賞なしという状況だったが、第12戦オランダGPで4位初入賞。ここから勢いに乗り、最終戦南アフリカGPまで4戦連続入賞を果たした。チームメイトのブルーノ・ジャコメリに対しても、予選成績では12勝3敗、獲得ポイントでもジャコメリの1に対し9となった。
[編集] ルノー時代
トールマンでの走りが認められ、1984年にはルノーに移籍。開幕戦ブラジルGPでは、中盤よりトップを走行するが、残り11周でサスペンショントラブルによりリタイヤ[3]。その後は2位2回・3位2回・4位1回・FL1回という成績を残し、予選でも3度の3位グリッドなど上位に食い込むが、勝利を手にすることはなかった。チームメイトのパトリック・タンベイに対しては、予選は10勝6敗と上回った[4]が、獲得ポイントでは下回っている。
1985年はチームが低迷し、入賞は5位2回・6位1回のみ、予選でも2桁グリッドが定位置となった(ベストは3度の6位グリッド)。チームメイトのタンベイに対しても、予選(7勝8敗)・決勝[5]共に下回った。
[編集] ブラバム時代
1986年にはロータスへの移籍がほぼ確実視されながら、当時ロータスのNo.1ドライバーだったアイルトン・セナが、ワーウィックをチームメイトとすることを拒否[6]。これにより、ロータスはセナのチームメイトにジョニー・ダンフリーズを抜擢、ワーウィックは浪人のまま開幕を迎えることとなった。
その後、ブラバムから参戦していたエリオ・デ・アンジェリスが、ポール・リカールでのテスト中に事故死。第6戦カナダGPより、代役としてチームに加入することとなった。しかしこの年のマシン「BT55」は、低重心化を意識しすぎた結果バランスや熟成を欠いており苦戦、入賞を記録することは出来なかった(最高位:7位)。チームメイトのリカルド・パトレーゼに対しても、予選成績で3勝8敗だった。
[編集] アロウズ時代
1987年にはアロウズに移籍するが、入賞は5位・6位が1度ずつの計2回に終わった。チームメイトのエディ・チーバーに対しても、予選成績では9勝7敗で上回ったが、獲得ポイントでは下回っている(チーバーの8に対し3)。
1988年は予選でチーバーに12勝4敗と前年以上に差を付け、決勝でも4位4回・5位2回・6位1回とコンスタントに入賞。ポイントでもチーバーの6に対し17を記録[7]し、ランクで1984年同様ベストタイとなる7位となった。
1989年も残留。前年と比較すると劣るものの、5位3回・6位2回の計5度の入賞を記録。予選ではチーバーに14勝1敗、決勝でも獲得ポイントで上回った[8]。
[編集] ロータス時代
1990年には、因縁のロータスに移籍。しかしこの時点で、ロータスのチーム力は1986年当時から大幅に低下しており、入賞は5位・6位が1回ずつと、思うような活躍は出来なかった。
この年を持って、ワーウィックはF1からの一時引退を宣言。SWCへ転向することとなる。
[編集] SWC時代
ワーウィックはF1参戦中も、1986年から1991年まで、スポーツカーレースにジャガーで出走していた。F1のシートを失った後はスポーツカーレースに力を入れるようになり、1991年は3勝を挙げ、ランク2位を記録。また、ル・マン24時間レースでは4位に入った。
1992年にはプジョーチームの一員として、ヤニック・ダルマス、マーク・ブランデルと共にル・マン24時間レースに勝利。これを含めた計3勝でSWCのチャンピオンとなるなど、成功を収めた。
[編集] F1復帰
[編集] フットワーク時代
前年の活躍をきっかけに、1993年にはフットワークからF1に復帰。戦闘力は低くないマシンだったが、入賞は4位・6位がそれぞれ1回ずつとなった(ただし、チームメイトの鈴木亜久里はノーポイント)。予選では亜久里に9勝7敗だった。
結局、同年末にチームから放出され、F1からの引退を余儀なくされた。
[編集] F1引退後
F1引退後はイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に出走し、1998年には1勝をマーク、さらに共同設立した888レーシングでヴォクスホールを走らせた。
2006年には、OBのF1ドライバーによるグランプリマスターズの、最初のシーズンに参加。
[編集] 評価
長くF1に参戦したが、勝利を挙げることはなかった。未勝利ドライバーの中では最高のドライバーの1人という評価もある。
[編集] 補足
- 得意なスポーツはボウリングで、夫婦そろって腕前は中々のものだという。
- 握力が強く、握られた相手の手が痺れると言われているほか、トールマン在籍時にマシンの車高を調整する鋼鉄製のレバーをあっさりとへし折ってしまったという逸話もある。
- 滅多なことでは怒らない上、怒っても静かに怒る英国紳士を絵に描いたような性格とされる。
- 古舘伊知郎からは「F1界の二谷英明」と言われた。
[編集] レースでのエピソード
- 1990年第12戦イタリアGPでは、オープニングラップに大クラッシュにあうが無傷で生還。さらに、クラッシュ直後にインタビューマイクを向けた川井一仁に対し、「グージェルミンのスリップストリームに入っていたんだけど…」と、何事もなかったかのように冷静に状況を話した後、スペアカーに乗り込みレースに復帰し、周囲を驚嘆させた。
- 1991年、15歳年下でありイギリスF3000で開幕以来全勝を誇っていた弟のポールが、レース中の事故で他界。この年の末から、英国の優秀な若手レーサーを表彰する「ポール・ワーウィック記念杯」が企画され、当時F3に参戦していたデビッド・クルサードが初代受賞者となった。
- ポール死去の直後に参戦したスポーツカーレースの予選中、ミハエル・シューマッハに進路を邪魔されたことに激怒してピットに殴りこみ、捕まえ殴ろうとした寸前にミハエルの顔を見て弟を思い出し、思い留まったという。
- 一度だけWRCにも参戦した事がある(1990年RACラリーでマシンはプロドライブ製のグループAスバル・レガシィ、成績は13位まで順位を上げていたが3日目にリタイアとなった)。
[編集] 注釈
- ^ 予備予選が存在した第6戦モナコGPでは予備予選落ち。
- ^ ワーウィックが予備予選落ちを喫した第6戦モナコGPは、ファビは不参加だった。
- ^ ニキ・ラウダが、ワーウィックを抜く際に必要以上に幅寄せした際、接触したことに起因するものだった。
- ^ ただし、タンベイは第5戦フランスGPでPPを獲得している。
- ^ タンベイが2度の3位表彰台などで11ポイントを獲得したのに対し、5ポイント。
- ^ 自分とワーウィックの実力が拮抗しているため、チームが自分をエースとして盛り立ててくれなくなることを危惧したと言われている。
- ^ ただし、チーバーが3位表彰台を記録しており、最高位では下回っていた。
- ^ チーバーの6に対し7。ただし、この年もチーバーは3位表彰台を記録していた。
[編集] F1での成績
太字はポイントを獲得したレースを示す。
Yr | Team | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | Team |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | トールマン | USAW | BRA | ARG | SAN | BEL | MON | SPA | FRA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | CAN | USA | トールマン | |
1982年 | トールマン | SAF | BRA | USAW | SAN | BEL | MON | USAE | CAN | DUT | GBR | FRA | DEU | AUT | SWI | ITA | USA | トールマン |
1983年 | トールマン | BRA | USAW | FRA | SAN | MON | BEL | USAE | CAN | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | EUR | SAF | トールマン | |
1984年 | ルノー | BRA | SAF | BEL | SAN | FRA | MON | CAN | USAE | USA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | EUR | POR | ルノー |
1985年 | ルノー | BRA | POR | SAN | MON | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | AUT | DUT | ITA | BEL | EUR | SAF | AUS | ルノー |
1986年 | ブラバム | BRA | SPA | SAN | MON | BEL | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | AUT | ITA | POR | MEX | AUS | ブラバム |
1987年 | アロウズ | BRA | SAN | BEL | MON | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | AUT | ITA | POR | SPA | MEX | JPN | AUS | アロウズ |
1988年 | アロウズ | BRA | SAN | MON | MEX | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS | アロウズ |
1989年 | アロウズ | BRA | SAN | MON | MEX | USA | CAN | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS | アロウズ |
1990年 | ロータス | USA | BRA | SAN | MON | CAN | MEX | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS | ロータス |
1993年 | フットワーク | SAF | BRA | EUR | SAN | SPA | MON | CAN | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | JPN | AUS | フットワーク |
[編集] カーナンバー(F1)
- 36(1981年第4~15戦)
- 35(1982年第1~6.9戦~1983年)
- 16(1984年~1985年第1~14.16戦)
- 8 (1986年第6~16戦)
- 17(1987年.1988年)
- 9 (1989年第1~6.8~16戦.1993年)
- 11(1990年)