デジレ・クラリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デジレ・クラリー(1777年11月8日 - 1860年12月17日)、全名ベルナルディーヌ・ウジェニー・デジレ・クラリー(Bernardine Eugénie Désirée Clary)、スウェーデン名デジデリア(Desideria av Sverige)は、ベルナドッテ王朝の始祖であるスウェーデン王兼ノルウェー王カール14世ヨハンの王妃、オスカル1世の生母、ナポレオン・ボナパルトの元婚約者。フランス皇后になり損ねたがスウェーデン王妃になった女性、ナポレオンの永遠の恋人と言われている。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] ナポレオンの婚約者
デジレは1777年、マルセイユの裕福な商家であったクラリー家の末娘として生を受ける。
1792年、ボナパルト家がマルセイユにやってくると、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトとデジレの姉マリー・ジュリーの間で縁談がまとまった。デジレとナポレオンはこの時知り合ったと見られる。以来デジレはナポレオンの婚約者として振舞ったものの、ジョゼフとマリーの結婚ではクラリー家の持ち出しがかなり多かったらしく(ボナパルト家はコルシカ島を着の身着のまま追い出されたような形で、当時無一文に近かった)、これ以上ボナパルト家にくれてやるものは無いと、デジレの父親の反対は大きかったらしい。
1793年、ナポレオンはトゥーロン攻略戦で武名をあげる事に成功するも、デジレが若すぎた事もあり、この時の結婚は無かった。さらに翌1794年、テルミドールのクーデターでナポレオンが連座して逮捕されるが、1795年パリで王党派によるヴァンデミエールの反乱が起こると、総裁バラスの副官に抜擢されたナポレオンは、兵力の劣勢にもかかわらずこれをまたたく間に鎮圧。一躍「ヴァンデミエール将軍」として祭り上げられる。ナポレオンと後のフランス皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとはこの頃知り合ったと思われる。
デジレとナポレオンはマルセイユとパリの間で恋文を交換するが、ナポレオンからの返事は次第に途絶えがちとなり、翌1796年、デジレに対し何の報告も無いままナポレオンはジョゼフィーヌと結婚。デジレにとっては婚約を反故にされた形となった。
[編集] ベルナドットとの結婚
その後、出会いは明らかではないが1798年、デジレはフランス陸軍の将軍でナポレオンのライバル、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)と結婚する。この結婚により、ベルナドットはクラリー家を通してボナパルト家の間接的な姻戚となったわけである。この背景には、ナポレオンの兄弟たちが、有能で民衆の人気もあったベルナドットをなんとか味方に引き入れようと、密かに2人が惹かれあうように演出したのではないかという話もあり、実際に翌1799年、ナポレオンがブリュメールのクーデタを起こして政権を奪取した際には、ベルナドットは中立の立場を取ってクーデタを静観している。ともあれ、2人は同じ1799年に一男オスカル(後のオスカル1世)を儲けている。
しかし、姻戚関係になったからといって、ベルナドットのナポレオンに対するライバル意識は消えたわけではなく、またジャコバン派であるがゆえに、彼はナポレオンの権力志向に対してあからさまな嫌悪感を抱き続けていた。それでもナポレオンにとっては、終生デジレに対して婚約を反故にしたという負い目が消えなかったらしく、ベルナドットが1800年、第二次イタリア遠征時のマレンゴの戦いの前後に新政権を狙った際も(パリに届いたこの戦いの第一報は、ナポレオンがオーストリア軍に負けたというものであった)、事を穏便に済ました。その後、フランス第一帝政下ではこれといった軍事的功績もないまま、ベルナドットを陸軍元帥の1人に推挙し、ポンテ・コルヴォ大公に封じている。イエナ・アウエルシュタットの戦いの際にベルナドットが決定的な大失態を犯し、軍法会議にかけられそうになった際も、デジレの取り成しによってナポレオンは執行寸前の命令文書を破り捨てている。ナポレオンは、イエナの戦いの頃からベルナドットの背信が始まったと述懐しているが、これは失態と言うよりも戦術的に不可抗力であったから、軍法会議は、ナポレオンの一方的な策略であったと現在では捉えられている。ベルナドットを不審視するナポレオンは、イエナ・アウエルシュタット後のプロイセン追撃戦におけるブリュッヒャー将軍の捕縛に関しても戦功とは見なしていなかった。
一方デジレにとっては、元婚約者のナポレオンが第一統領、終身統領、皇帝と出世し、ジョゼフィーヌがフランス皇后となるにつけ、心中穏やかではなかったし、ナポレオンの兄ジョゼフと結婚したデジレの実姉マリーはナポリ王妃、スペイン王妃になったわけであるから、大変なコンプレックスを抱えていた事は想像に難くない。ちなみにこの時期のデジレの称号は、1806年に与えられたポンテコルヴォ大公妃である。
[編集] スウェーデン王妃
1809年、夫ベルナドットがスウェーデン王位継承候補者となったことは、デジレ、そしてフランスの運命を大きく転換する出来事であった。ナポレオンの玉座の前に進み出て「スウェーデンの要請を受け入れる旨許可してほしい」と願い出たベルナドット夫妻に対し、ナポレオンは「デジレには悪いことをした」という贖罪の気持ちも込めて、ベルナドットがスウェーデン王位継承者となることを許可する。ベルナドットは1810年に王太子、摂政となってスウェーデンでの執政を開始した。デジレが息子オスカルとともにパリからストックホルムに移ったのは1811年のことである。しかしデジレは、フランスとは気候風土も文化も異なるスウェーデンになじめず、またこの時期のスウェーデンの冬が異常に寒かったこともあってか、半年ほど住んだ後に夫と息子を置いて単身パリへ戻った。
1812年、ロシアがフランスに対して反旗を翻すと、ベルナドットが摂政を務めるスウェーデンもこれに呼応。これがナポレオンの帝国を崩壊させるきっかけとなり、ナポレオンの縁者としてヨーロッパ各地の王位、大公位に就いていた者は、ベルナドット家を除いて全てその地位を失った。因みに1812年、ベルナドットはフィンランドにおいて、ロシア皇帝アレクサンドル1世と会談を行っている。この時ベルナドットはアレクサンドルに気に入られ、皇帝の妹との縁談が持ち上がった。しかしベルナドットはやんわりと縁談を断ったので、デジレとの関係は保たれた。1818年、ベルナドットはスウェーデンとノルウェー(1814年に獲得)の国王カール14世ヨハンとして即位した。
1823年に王太子オスカルが皇后ジョゼフィーヌの同名の孫娘と結婚したのを機に、デジレは再びストックホルムに移り住んだ。デジレはスウェーデン国民から大歓迎を受け、その後も国母として敬愛された。夫カール14世は1844年に死去したが、王位を継承した息子オスカル1世も1859年、デジレに先立って死去し、すでに摂政を務めていた孫のカール15世が即位した。翌1860年、デジレは83歳で死去した。デジレの最後の言葉は、「ナポレオン」であったとも言われている。カール14世ヨハンとデジレの子孫の血統は、現在でもスウェーデン王室(ベルナドッテ家)として続いている。
デジレが亡くなった後、彼女の枕の下から、かつてナポレオンに宛てて書き送った恋文の下書きが何枚も発見されたという。この事から解るように、デジレは生涯ナポレオンを敬愛し続け、一方でスウェーデン王妃という華やかな地位を敬遠し続けたという。
デジレは温和ではあったが、父親の反対を押し切ってまでナポレオンと結婚するほどの意志の強さはなく、もしナポレオンがデジレと結婚していたら、彼は小成に甘んじていただろうという説がある。
[編集] デジレ・クラリーを取り上げた作品
- 映画
- 漫画
- 池田理代子『栄光のナポレオン-エロイカ』1986年-1995年 婦人公論