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テムズの戦い - Wikipedia

テムズの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

テムズの戦い
Battle of the Thames
米英戦争
1813年10月5日
場所 オンタリオ州チャタム近く
結果   アメリカ軍の決定的勝利
衝突した勢力
イギリス軍
インディアン同盟
アメリカ軍
指揮官
ヘンリー・プロクター
テカムセ
ウィリアム・ハリソン
戦力
正規兵800名
インディアン500名[1]
民兵2,380名
騎兵1,000名
正規兵120名
インディアン260名[1]
被害者数
戦死45名
負傷後捕虜35名
降伏442名
戦死15名
負傷30名

テムズの戦い(-のたたかい、英:Battle of the Thames、またはモラビアタウンの戦い(Battle of Moraviantown))は、米英戦争中の1813年10月5日アッパー・カナダチャタム近くで行われた戦いである。イギリス軍アメリカ軍共に同盟するインディアンが戦闘に加わったが、アメリカ軍の決定的勝利となり、勇猛で鳴らしイギリス軍に加担したショーニー族インディアンの指導者テカムセが戦死した。結果的にイギリス軍とインディアンの同盟も消滅した。

目次

[編集] 背景

1813年9月、オリバー・ハザード・ペリー指揮するアメリカ海軍エリー湖の湖上戦で決定的勝利を奪った。イギリス軍のヘンリー・プロクター将軍は補給線を失うことをおそれ、テカムセの助言も容れずに、マルデン砦から撤退を始めた。アメリカ軍のウィリアム・ハリソン将軍は、プロクターを追ってアッパー・カナダに入った。テカムセは何度もプロクターを説得してアメリカ軍と向き合わせようとした。最後はプロクターが折れて、テムズ川のモラビアタウンでハリソンと対峙することになった。

[編集] 戦力

ウィリアム・ハリソンの軍隊は少なくとも3,500名の歩兵と騎兵がいた。その中にはダンカン・マッカーサールイス・カス将軍の下にそれぞれ正規歩兵部隊がいた。リチャード・メンター・ジョンソン大佐がケンタッキー騎兵を率いた。ケンタッキー民兵の5部隊は、アメリカ独立戦争の英雄で63歳のアイザック・シェルビーが率いた。ジョンソン指揮下の志願兵の多くはレーズン川の出身であり、「レーズンを忘れるな」をスローガンに徴兵されていた。

プロクター軍には約800名の正規兵とテカムセが率いる約500名のインディアンがいた。イギリスの兵士は徐々に士気を失いつつあり、プロクターがなかなか踏みとどまって戦おうとしなかったので、テカムセのインディアン戦士は辛抱しきれなくなっていた。プロクターはインディアンによる反乱を恐れていた。イギリス軍はハリソン軍から逃げるために長く急速な行軍を強いられたので、食料の配給も半分に減っていた。ハリソン軍は前進するにつれてイギリス軍の落ちこぼれに会う様になりこれを捕まえていった。

[編集] 戦闘

ウィリアム・ハリソン
ウィリアム・ハリソン

10月4日、テカムセはチャタムの近くでアメリカ軍と小競り合いを演じ、アメリカ軍の歩みを遅らせようとした。戦士たちは直ぐに圧倒され、プロクターの副官オーガスタス・ウォーバートンはその物資・弾薬をアメリカ軍に奪われてしまった。10月5日、プロクターはモラビアタウンで正規兵の戦列を布き、大砲でアメリカ軍を道路から追い出してテムズ川の堤に追いやろうと考えた。テカムセの戦士はイギリス軍の右手にある沼地に終結してアメリカ軍の側面を衝こうとした。ハリソン将軍は戦場を調べて、ジェイムズ・ジョンソン(リチャード・メンター・ジョンソンの弟)にイギリス軍の正面からの攻撃を命じた。ジョンソンはインディアンの側面からの攻撃をものともせずに突破し、イギリス軍の大砲も使えなくした。即座にプロクターとイギリス軍は撤退を始めたが、多くの者がそこで降伏した。テカムセは踏み止まって戦いを続けた。

リチャード・ジョンソンが20騎の騎兵の先頭に立ち、アメリカ軍の主力の動きから気を逸らせようとインディアンに攻撃を掛けたが、テカムセとその戦士がマスケット銃の一斉射撃を行い騎兵の攻撃を食い止めた。ジョンソン隊の15名が死傷し、ジョンソンも銃弾5発を受けた。ジョンソン隊は沼地の泥に嵌って動けなくなっていた。テカムセがこの戦闘中に殺された。ジョンソン大佐がテカムセを倒した者であったかもしれないが、確たる証拠は無い。ウィリアム・ホワイトリーというアメリカ独立戦争の古参兵が、テカムセを倒したもう一人の者とされている。ホワイトリーはケンタッキーのクラブ・オーチャード生まれで、テカムセ隊攻撃に志願していた。ホワイトリーはテカムセの死体が見つかった時に頭皮を剥いでテカムセの妻に送ることをハリソン将軍に求めた。アメリカ軍の主力が沼地を制圧し、ジェイムズ・ジョンソン部隊はイギリス軍の反撃から逃れた。アメリカ軍の増援が集結し、テカムセが戦死したという報せは急速に広まり、インディアンの抵抗は雲散霧消した。騎兵の部隊がモラビアタウンに移動し焼き払った。この町は戦闘になんの関与もしていなかったキリスト教マンシー族インディアンの平和な集落であった。

イギリス軍は12名が戦死、35名が負傷後に捕虜となり、442名が降伏した。インディアンは33名の戦士が戦死した。イギリス軍は疲れ切って戦意を失くし、半分は飢えたままで1回きりの一斉射撃を返して3名のアメリカ兵を負傷させ、その後に退散した。アメリカ軍の損失の他の部分はインディアンによるものだった。インディアンも士気が衰えていたが、イギリス軍よりははるかに強い決意で戦っていた。

[編集] 結果

Chief テカムセ

テムズの戦いはアメリカ軍の決定的な勝利に終り、米英戦争の残り期間、アメリカ軍が北西部領土を支配し続けることになった。しかし、ハリソンはこの勝利を次への突破口にすることもなく、モラビアタウン焼き討ち後はデトロイトまで引き揚げた。この地域の前線は戦争終結まで静かなままになった。

ハリソンの人気があがり、後にアメリカ合衆国大統領に選ばれることになった。リチャード・メンター・ジョンソンは、テカムセを殺したと信じられたことを利用し、アメリカ合衆国副大統領になった。

プロクターは後に憶病さをさらけ出したとして軍法会議に掛けられ、指揮を外された。歴史家は幾分プロクターに同情的であり、エリー湖がアメリカ軍に支配されていたことと、デトロイト前線には限られた戦力と物資しか無かったことをその根拠としている。テカムセの戦死は、テカムセが作り上げたインディアンの同盟に大きな打撃となり、その後の戦闘に対しては実質的に消滅した。

[編集] 脚注

  1. ^ a b Strength numbers and composition from John Sugden, Tecumseh: A Life (New York: Holt, 1997), pp. 368-72; casualty figures from John R. Elting Amateurs, To Arms! A Military History of the War of 1812 (Chapel Hill, NC: Algonquin, 1991;Da Capo reprint, 1995) p. 113.

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • Carter-Edwards, Dennis. "The War of 1812 Along the Detroit Frontier: A Canadian Perspective," in The Michigan Historical Review, 13:2 (Fall 1987), pp. 25-50.
  • Cleaves, Freeman. Old Tippecanoe: William Henry Harrison and His Time. New York: Scribner, 1939. ISBN 0-945707-01-0 (1990 reissue).
  • Edmunds, R. David. "Forgotten Allies: The Loyal Shawnees and the War of 1812" in David Curtis Skaggs and Larry L. Nelson, eds., The Sixty Years' War for the Great Lakes, 1754-1814, pp. 337-51. East Lansing: Michigan State University Press, 2001. ISBN 0-87013-569-4.
  • Elting, John R. Amateurs, To Arms! A Military History of the War of 1812. Chapel Hill, NC: Algonquin, 1991. ISBN 0-945575-08-4 (hardcover); ISBN 0-306-80653-3 (1995 Da Capo Press paperback).
  • Sugden, John. Tecumseh's Last Stand. Norman, Oklahoma: University of Oklahoma Press, 1985. ISBN 0-8061-1944-6.
  • ———. Tecumseh: A Life. New York: Holt, 1997. ISBN 0-8050-4138-9 (hardcover); ISBN 0-8050-6121-5 (1999 paperback).

[編集] 外部リンク


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