リチャード・メンター・ジョンソン
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リチャード・メンター・ジョンソン Richard Mentor Johnson |
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アメリカ合衆国9代副大統領
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任期: | 1837年3月4日 – 1841年3月3日 |
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出生: | 1780年10月17日 ケンタッキー州ベアーグラス |
死去: | 1850年11月19日 ケンタッキー州フランクフォート |
政党: | 民主共和党 |
配偶: | なし |
リチャード・メンター・ジョンソン(Richard Mentor Johnson, 1780年10月17日 - 1850年11月19日)は、ケンタッキー州上院議員およびアメリカ合衆国第9代副大統領。
[編集] 生涯
ジョンソンはケンタッキー州ジェファーソン郡のベアーグラス(現在のルイビルの近く)で生まれた。彼はトランシルヴァニア大学に入学し、卒業後1802年に法曹界入りし、1804年から1806年および1819年の州議会議員であった。民主共和党の候補として第10議会に選任され、連続五期選出された。(1807年3月4日 - 1819年3月3日)彼はクレーム委員会の議長および陸軍省消費委員会の議長であった。
ジョンソンは米英戦争中の1813年にケンタッキー義勇軍の大佐に委任され、ロウワー・カナダにおいてイギリス軍に対峙して連隊を指揮した。彼は戦いの中でショーニー族の酋長テコムサを殺したことで賞賛された。このことが疑わしかったにもかかわらず、ジョンソンはその後政治経歴の中でそれを利用した。ジョン・クリッテンデンの辞職による空席で彼はアメリカ上院に選任され、1819年12月10日から1829年3月3日まで再選され上院議員を務めた。1829年の選挙で彼は落選した。
彼は第21議会および続く三期の議会(1829年3月4日 - 1837年3月3日)に選任された。彼は郵政委員会および軍事委員会の議長であった。1837年2月8日には、選挙人団の多数投票を得た候補がいなかったため上院によって副大統領に選出され、1837年3月4日から1841年3月3日までマーティン・ヴァン・ビューレン大統領の下副大統領職を務めた。上院によって副大統領に選出されたのはジョンソンだけである。
ジョンソンは1850年に州議会議員に選出されたが、就任後間もなくケンタッキー州フランクフォートで死去した。彼はフランクフォート墓地に埋葬された。
彼の兄弟ジェームズおよびジョン・テレマコス、および甥のロバート・ウォード・ジョンソンは彼同様下院議員であった。またロバート・ウォードは上院議員も務めた。
ジョンソンは二人の妻の死去後、父親から受け継いだ元奴隷であるジュリア・チンと内縁関係を持った。彼らの間には二人の娘、アダリーン・チン・ジョンソンおよびイモージン・チン・ジョンソンがいた。
アイオワ州、ケンタッキー州、ミズーリ州およびネブラスカ州のジョンソン郡は彼にちなむ。
[編集] 外部リンク
- Biographical Directory of the United States Congress - アメリカ合衆国議会の人名辞典サイト[1]内の、リチャード・メンター・ジョンソンの項目(英語)
- Senate Historical Office: Richard Mentor Johnson Biography (pdf)
官職 | ||
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先代: マーティン・ヴァン・ビューレン |
アメリカ合衆国副大統領 1837年3月4日 - 1841年3月4日 |
次代: ジョン・タイラー |
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関連項目 : アメリカ合衆国副大統領 - アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス - アメリカ合衆国大統領 | ||||||
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※ 名前の前の年号は就任年 |