ダスティ・ローデス
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ダスティ・ローデス(Dusty Rhodes)のリングネームで最も知られるヴァージル・ラネルズ・ジュニア(Virgil Riley Runnels, Jr.、1945年10月12日 - )は、アメリカのプロレスラー。
テキサス州オースティン出身。身長186cm、体重135kg。ニックネームはアメリカン・ドリーム(The American Dream)。日本でのキャッチコピーは重戦車。「俺は配管工の息子から成り上がったんだ」が決め台詞。コテコテの南部なまりでのマイクアピールを得意とする。
日本ではダスティ・ローデスと表記されるが、正式にはダスティ・ローズと発音する(プロ野球選手のタフィ・ローズやギタリストのランディ・ローズと同じスペル)。特にブルロープ・マッチの試合形式で活躍した。
実子のダスティン・ラネルズもプロレスラー(ダスティン・ローデス、ゴールダスト、ダスティ・ローデス・ジュニアなどのリングネームで知られる)。昨年から末子のコーディ・ローデスもプロレス界入りした。(ダスティンとは異母兄弟)
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[編集] 経歴
ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活躍していた(同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン。ザ・ファンクスは大学の先輩。
1968年デビュー。ディック・マードックとタッグチーム「ジ・アウトローズ」を結成し、AWAとNWA両地区を股に掛けて活躍。1971年11月、国際プロレスに参戦するため初来日。以降、全日本プロレスと新日本プロレスに参戦した。
130kgを越える巨体であったが動きはコミカルで素早く、ショーマン・スタイルの第一人者としてベビーフェイスで活躍、大人気を博した。1977年にはMSGでスーパースター・ビリー・グラハムのWWF世界王座に連続挑戦。
ジ・アウトローズ解散後の1979年8月21日、フロリダ州タンパでハーリー・レイスを破り第53代NWA世界ヘビー級王座を獲得するが、5日後オーバー・ザ・トップロープによる反則負けで王座転落。その後1981年(61代)、1986年(69代)にも同王座を奪取し計3度ベルトを巻いている。1985年頃からはレスラーだけではなく、NWAのプロデューサーとしても活動を始め、数多くの大会や試合形式を企画した。
1989年から約二年間、WWF(現WWE)に所属。黒人女子レスラーのサファイアをマネージャーに、水玉模様のリングコスチュームで活動した。1990年代はWCWのプロデューサーに就任、一時期は事実上の引退状態だったが、nWoのメンバーでもあった。WCW崩壊後は各地のインディー団体などにも出場している。
2003年からはTNAのプロデューサーに就任、レスラーとしても活動。2004年には、息子とともにハッスルに参戦した。TNA退団後、2005年にはWWEとレジェンド契約を果たすなど、未だプロレスラーとしての活動を継続している。現在はWWEでプロデューサー・脚本家として働いているが、ときたまリング上に姿を見せることもある。2007年には、WWE殿堂入りを果たした。
ローデスのパフォーマンスとして有名なのが「尻振りダンス」である。これは相手を倒した後、尻を左右にクリッ、クリッと振る物で、アメリカでこれをやるとバカウケしたが、これを見たジャイアント馬場が、「こんなのが流行るのだから、アメリカと言うのは判らん国だ」とあきれていたと言う。
[編集] 日本での活動
初来日は前記のように1971年11月、国際プロレスであった。この時はストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦しているが2-0で敗れている。その後1973年の再来日でマードックと組んでラッシャー木村・グレート草津組のIWA世界タッグ王座に挑戦。
1975年11月には全日本プロレスに登場。マードックとのコンビでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、そのまま二人とも残留してオープン選手権に参加した。国際プロレスの常連外人で同じくオープン選手権に参加したホースト・ホフマン、バロン・フォン・ラシクはそのまま全日本プロレスの常連になったが、ローデスが全日本に来たのはこれが最初で最後だった。どうも馬場はローデスをあまり評価していなかったらしく「レスラーとしては何から何までマードックの方が上」と語っている。また、フロリダでの試合で、当時全日本の常連外人であったワンマン・ギャングに17分間四の字固めをかけて足首を亀裂骨折させ、来日キャンセルに追い込んだ事から、馬場を激怒させたこともある。
1979年10月、新日本プロレスに参戦。ローデスのスタイルからいくと新日本には合いそうもないのだが、この時にアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦して以降たびたび新日本に登場、平成に入るまで参戦し続けている。アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとの対戦、マードックとのコンビ復活、息子ダスティン・ラネルズとの親子タッグと数々の名場面は残したものの、アメリカでの名声の割にはいまいち活躍できなかったという感がある。これはフロリダ地区を含めて、活動が選手のみならず、ブッカーやプロデューサーも兼務していて多忙だった事やギャランティの問題から、短期(1週間以下)の特別参戦が新日本では多かった事に起因する。ハンセンも自伝によると「出稼ぎ気分で」来日しているローデスのギャラの高さに納得していなかったという。