セウタ
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面積 – 総面積 |
28 km² |
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人口 – 総人口 (2005年) – 人口密度 |
75,276 2688.43/km² |
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住人の呼称 – 英語 – スペイン語 |
--- ceutí |
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自治法 | 1995年3月14日 | ||||
ISO 3166-2 | ES-CE | ||||
議席割当 下院 上院 |
1 2 |
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知事 | ファン・ヘスス・ビーバス・ララ(Juan Jesús Vivas Lara) | ||||
セウタ政府公式サイト |
セウタ(Ceuta)は、アフリカ大陸北部にあるスペインの飛地領。ジブラルタル海峡に近い地中海沿岸に位置し、モロッコ最北部の岬に相当する。面積28km2、2003年現在の人口は7万6152人。
スペイン軍が駐留するモンテアチョ (Monte Hacho) と呼ばれる丘の周辺に町が広がっている。ギリシャ神話に登場するヘラクレスの柱は、モンテアチョかモロッコ最北部にある海峡に面したヘベルムサ山 (Jebel Musa) のことではないかと考えられている。
[編集] 歴史
セウタは海上交通また軍事上の要衝として、重視されてきた。紀元前5世紀にはカルタゴ人が街を築き、アビラと呼んだ。紀元後42年には再びローマ人が街を築き、軍事拠点として用いた。このときの名はセプティムという。5世紀半ばにはローマ人の手を離れヴァンダル人の支配に帰したが、のちにスペインにいた西ゴート族あるいは東ローマ帝国によって奪取された。710年にイスラムが侵攻すると、当時の西ゴート王国の知事ユリアヌスは寝返り、イスラム軍に対してスペイン侵略を説いた。アラブ側史料によれば、その背景には西ゴート王ロデリックがユリアヌスの娘に乱暴を働いた恨みがあるという。セウタはまもなくイスラム軍のスペイン攻撃の拠点となった。
ユリアヌスの死後、セウタの支配はイスラム側に帰した。
1415年にエンリケ航海王子がセウタを奪取し、セウタはポルトガル王国領となった。この攻撃の目的は、この地域一帯からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興することにあった。ポルトガル領だった名残は、セウタの紋章がポルトガル王国の国章に酷似している点に表れている。
1580年にスペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承して以来、セウタはスペイン領となっている。1668年1月1日のリスボン条約でポルトガルの独立が再び認められた際、セウタは正式にポルトガルからスペインに割譲された。1956年のモロッコ独立に際して、セウタ周辺のモロッコ北部地域はモロッコ領となったが、セウタはメリリャとともにスペイン領で残された。
現代では、セウタはその国際的な性質と、類を見ないヨーロッパの影響で知られ、このため観光客を集めている。
現在のセウタの行政的地位はスペインの自治権をもつ地方行政区である。自治市になる以前は、行政上はセウタはカディス県の一部だった。セウタはヨーロッパ連合に加盟した一地域になっている。セウタはスペインが1986年にヨーロッパ連合に加盟するまでは自由港だった。現在では欧州通貨システムの中での減税システムをもっている。
モロッコは、スペインがジブラルタルを自国の領土だと主張していることと対比させて、カナリア諸島ならびに自国領土に隣接するセウタおよびメリリャの編入を求めているが、スペイン政府も、セウタ、メリリャの両住民もこれを拒否している。これは、英国の海外領土であるジブラルタルは連合王国の一部であったことは無いのに対し、セウタとメリリャはスペイン国の一部であることに論拠を置いている。
ISO 3166-1はEAをセウタとメリリャに割り当てている。