ストローブ=ユイレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ストローブ=ユイレ(Straub-Huillet、もしくはStraub/Huillet)は、フランス国籍の映画監督。
ジャン=マリー・ストローブ(Jean-Marie Straub、1933年1月8日 メス -)と、ダニエル・ユイレ(Danièle Huillet、1936年5月1日 パリ - 2006年10月9日 ショレ)の二人が完全な共同作業で映画を制作し、通常は連名標記される。
キャメラや俳優の配置等のフレーミングに関してはストローブが裁量権を持つものの、脚本、演出、音声/音楽、編集、製作に関しては両者の権限は同等と言われており、二人の関係に序列や優劣はない。 なお、私生活において両名は夫婦関係にある。
目次 |
[編集] 経歴
ドイツとの国境沿いにありフランス領とドイツ領を行き来をした経緯を持つメス(Metz) で生まれ育ち、幼年時にドイツ語教育を強制された経験を持つストローブは高等映画学院(IDHEC)進学のためにパリに上京し、当時ソルボンヌ大学生だったユイレと知り合う。同時にシネマテーク・フランセーズで知り合った、ゴダールやロメール、リヴェットら後のヌーヴェルヴァーグの面々と親交を深める。1956年、ストローブはリヴェットの35ミリ撮影の短編『王手飛車取り』の助監督につく[1]。
1958年、ストローブはアルジェリア戦争への荷担を拒否するために懲役を忌避し、ユイレ共々ドイツに亡命する。軍事法廷で有罪となり、この後11年間フランスに帰国することができなかった。
ドイツで長年構想を温めていた『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(DVDリリース題『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』)制作のための資金を貯めながら短編・中編映画を作成し、二本目の『妥協せざる人々』(1965年)でニュー・ジャーマン・シネマの旗手ともて囃される。1968年に念願の『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』を制作・発表して世界各地で絶賛され、その名を世界的なものとした。
ドイツ在住の後にイタリアに移住するが、それは単に活動拠点を移動したに過ぎず、二人の活動は出発点から今日に至るまで汎ヨーロッパ的なものであると言える。
1930年代から1940年代にかけてのハリウッド黄金時代のアメリカ映画をこよなく愛し、ロベール・ブレッソン、小津安二郎、溝口健二等を敬愛している。逆に現代アメリカ映画には憎悪に近い悪感情を抱いており、自分こそがアメリカ映画の伝統を維持していると自負している。また、ドイツ亡命当時から現在に至るまで筋金入りのコミュニストであり、今日においてもブルジョワと言う言葉をなんのてらいもなく批判的な語彙として用いている。
[編集] その作品
ストローブ=ユイレの作品は難解さをもって知られ前衛作家と称されることが少なくないが、その画面構成やカメラワークには前衛的な要素は極めて少ない。
しかし、映画に対する姿勢、すなわち映画表現というものに対する峻厳さと非妥協性は他に較べるものがないほどであり、こういった観点から見ればストローブ=ユイレは絶対的な孤高の地点に立つ最前衛の作家だと言える。これに対峙できる作家と言えば、映画制作の手法自体は大きく異なるとはいうものの只一人ゴダールがいるだけだろう。
[編集] ストローブ=ユイレの前衛性
ストローブ=ユイレの前衛性を一言で言い表すなら、映画表現において何が、どこまで可能であるかを飽くことなく追求し続けていることにある。従って、実はストローブ=ユイレには決まった手法やら作風における統一的なオリジナリティーと呼べるようなものはないとされる。
古典劇(『オトン』)、古典劇の現代作家による翻案(『歴史の授業』、『アンティゴネー』)、オペラ(『モーゼとアロン』、『今日から明日へ』)、小説(『アメリカ(階級関係)』)、詩(『すべての革命はのるかそるかである』)、ドキュメンタリー(『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』、『フォルティーニ/シナイの犬たち』とその題材は多彩かつ多岐に渡っており、原則として台詞回しやナレーションは原テクストをそのまま用いること(省略や割愛はある)、俳優たちに特異なリズムと抑揚をもってテクストを発声させること(そのリズムと抑揚は厳格に指定され、シナリオに書き込まれている)、俳優に対し過剰な演技を強いることがないこと、そして伝統的かつ正統的なフレーミングやカメラワークを基本とすること以外の共通の要素はない。しかし、こうした題材の選択からもわかるように、ストローブ=ユイレの映画には物語の筋道のわかりやすい説明や簡潔な言葉に置き換えることが可能な主題や主張はなく、時には時間的な延長そのものを作品において実現(再現)するようなケースすらあるため、容易に人を寄せ付けないものと言われる。
つまり、ストローブ=ユイレの作品は観る側(受け手)にも積極的かつ主体的な関与が必要とされており、作る側が準備したものを受け取る(鑑賞する)ことが基本であり大前提とされている一般的な映画とは依って立つ位置が根本的に異なっており、この限りにおいて彼らは前衛的と言える。
また、受け手の積極的かつ主体的な関与が必要かつ大前提とされるという点においてはゴダールと極めて近しい関係にあるとされるが、ゴダールが「断片化」とでも言い得る統一的な手法を基本とした作品を作り続けているのに対し、ストローブ=ユイレの前衛性はその実現手法という点において一作ごとに異なっていることも大きな特徴として上げられる。三世代に渡る一族の物語を55分という中編に極端に圧縮・再構成した『妥協せざる人々』、実在の人物の日記を忠実かつ厳密なドキュメンタリー「的」な手法で再現しながらも主演者に対しては経年変化の装飾を一切施さない(つまり若い時から老年に至るまで同じ様相)『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』、古代ローマの遺跡を舞台にしてフランス語を母国語としない多国籍の素人俳優達に丸暗記させたフランス語古典劇をなまり丸出しで演じさせた『オトン』、現代人(の衣装)と古代のコスチュームを纏った人間とが共に演じる古典劇『妥協せざる人々』、異なった書体と自由なレイアウトで作られたマラルメの前衛詩『賽のひと振りは決して偶然を廃棄しないであろう』を書体別に別な人間に朗読させた『すべての革命はのるかそるかである』など作品に対するアプローチの手法には基本的に二つとして同じものはないと言われる。
[編集] ストローブ=ユイレの意義と価値
ストローブ=ユイレの作品はお世辞にもわかりやすいとは言えないし、誰もが気軽に楽しめるものでもないといわれる。少なくとも話題の娯楽大作を観るような心づもりで望めば、その手の付け所の無さ、手の施しようの無さからたやすく睡魔に襲われるような作品が多い。しかし、彼らがなし得、達しつつあるのは映画の限界点と可能性とがせめぎ合う極北であることは間違いなく、過去に残すべき人類の財産と言っても過言ではないと言われる。そして、誰に寄り添うでもなく、また特定のスポンサーに支えられるのでもなく、経済的な産物である映画制作の領域において「現世」と折り合いを付けながら、二人だけで数十年間も孤高の地位に留まり続けていることが何にもまして素晴らしいと言われる理由である。
ストローブ=ユイレがいるからこそゴダールは独我唯存の道を歩むことができるのだろうし、ペドロ・コスタを始めとする多くの映画作家達に与えた影響と刺激は計り知れないとされる。かつてカール・ドライヤーやロベール・ブレッソンが、あるいはヌーヴェルヴァーグの面々が行っていたことを、一切合切含めて一人で(二人で)支え続けているストローブ=ユイレは手放しの賞賛の的である。
[編集] 全監督作品 (2006年現在)
- マホルカ=ムフ(1962年)
- 妥協せざる人々(1965年)
- アンナ・マグダレーナ・バッハの日記(1968年)
- 花婿、女優、そしてヒモ(1968年)
- オトン(1969年)
- 歴史の授業(1972年)
- アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門(1972年)
- モーゼとアロン(1974年)
- フォルティーニ/シナイの犬たち(1976年)
- すべての革命はのるかそるかである(1977年)
- 雲から抵抗へ(1978年)
- 早すぎる、遅すぎる(1981年)
- アン・ラシャンシャン(1982年)
- アメリカ(階級関係)(1984年)
- エンペドクレスの死(1986年)
- 黒い罪(1988年)
- セザンヌ(1989年)
- アンティゴネー(1992年)
- ロートリンゲン!(1994年)
- 今日から明日へ(1996年)
- シチリア!(1998年)
- 労働者たち、農民たち(2000年)
- 放蕩息子の帰還/辱められた人たち(2002年)
- ルーヴル美術館訪問(2004年)
- あの彼らの出会い(2006年)