ジム・トンプスン
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ジム・トンプスン(Jim Thompson, 1906年9月27日-1977年4月7日)はアメリカ合衆国の小説家、推理作家、脚本家。本名はJames Meyers Thompson。
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[編集] 経歴
オクラホマ州出身。1920年、14歳の時に最初の作品となるフィクションを雑誌True Detectiveへ投稿。ネブラスカ大学を卒業後、石油パイプラインや新聞社などで働く。
スタンリー・キューブリック監督の映画、『現金に体を張れ』と『突撃』に脚本家として参加。
テレビドラマ『鬼警部アイアンサイド』のノベライゼーションを執筆。
トンプスン死後の2000年には同じオクラホマ出身の黒人作家ラルフ・エリソンの名を冠したラルフ・エリソン賞が送られており、彼の代理で長女が受け取った。(黒人犯罪者という当時のタブーに触れ、内面を高度に描写した1972年の作品Child Of Rageがきっかけと言われている。)
[編集] 人物
現在では暗黒小説の巨匠として高い評価を得ているものの、生前はあまり評価されず、全盛期に契約していた出版社Lion Booksに、彼あてのファンレターが来ることはついに一度も無かった。また、彼の葬儀にはほとんど誰も出席しなかったという。遺灰は飛行機で大西洋に撒かれた。
彼は一般的な読者層の期待をなかば無視した異端の小説を書き続けたが、妻に 「私は死んでから約10年後には有名になっているだろう。」 と言い、作品の原稿を保管しておいてくれと言い残している。(本当に有名になり始めたのは死んでから20年以上も経ってからであったが、大切な伝言の際に断言せずに"約"と言うところがトンプスンの性格を物語っている。)
[編集] 作品と和訳
- "Now and On Earth"(1942年)
- "Heed the Thunder (別名 Sins of the Fathers)"(1946年)
- "Nothing More Than Murder"(1949年)
- 『取るに足りない殺人』(三川基好訳,扶桑社)
- "The Killer Inside Me"(1952年)
- "Cropper's Cabin"(1952年)
- "Recoil"(1953年)
- "The Alcoholics"(1953年)
- "Savage Night"(1953年)
- 『サヴェッジ・ナイト』(門倉洸太郎訳,翔泳社)
- 『残酷な夜』(三川基好訳,扶桑社)
- "Bad Boy"(1953年)
- "The Criminal"(1953年)
- "The Golden Gizmo (別名 The Golden Sinner)"(1954年)
- "Roughneck"(1954年)
- "A Swell-Looking Babe"(1954年)
- 『深夜のベルボーイ』(三川基好訳,扶桑社)
- "A Hell of a Woman"(1954年)
- "The Nothing Man"(1954年)
- 『失われた男』(三川基好訳,扶桑社[扶桑社ミステリー])
- "After Dark, My Sweet"(1955年)
- 『アフター・ダーク』(三川基好訳,扶桑社)
- "The Kill-Off"(1957年)
- "Wild Town"(1957年)
- 『荒涼の町』(三川基好訳,扶桑社)
- "Lunatic at Large"(1958年)[1]
- "The Getaway"(1959年)
- "The Transgressors"(1961年)
- "The Grifters"(1963年)
- 『グリフターズ』(黒丸尚訳,扶桑社[扶桑社ミステリー])
- "Pop. 1280"(1964年)
- 『ポップ1280』(三川基好訳,扶桑社)
- "Texas By the Tail"(1965年)
- "South of Heaven"(1967年)
- "Ironside"(1967年)
- 『鬼警部アイアンサイド』(尾之上浩司訳,早川書房[ハヤカワ・ミステリ])
- "The Undefeated"(1969年)
- "Child of Rage"(1972年)
- "King Blood"(1973年)
- "Fireworks: The Lost Writings of Jim Thompson"(※題名となったFireworksを含め、短編や未完の作品などを一冊の本にして1988年に発表。)
- "The Rip-Off"(※死後に発見された作品。アメリカでは1989年に発表。)
[編集] 脚注
- ^ Lunatic at Largeの映画化を検討していたスタンリー・キューブリックが原稿を紛失してしまい、一度は幻の作品となっていたが、1999年ごろキューブリックの義理の息子フィリップ・ホッブスが記録係と共にキューブリックの遺品である書類を整理していたところ、偶然に原稿を発見したという。(ニューヨークタイムズ、2006年10月)