イワン・ハンドシキン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
交響曲 - ピアノ協奏曲 |
ピアノソナタ |
ヴァイオリン協奏曲 |
ヴァイオリンソナタ |
弦楽四重奏曲 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
イヴァン(・イェフスタフィエヴィチ)・ハンドシュキン(Иван Евстафьевич Хандошкин / Ivan Yevstafyevich Khandoshkin, * 1747年 サンクトペテルブルク - †1804年3月29日または30日 同地)はロシア帝国のヴァイオリン奏者・作曲家。おそらく農奴として生まれたが、長じて弦楽器のヴィルトゥオーゾとなり、「18世紀ロシア最上のヴァイオリニスト」と呼ばれた[1]。
ティト・ポルタ(Tito Porta)やドメニコ・ダッロリオ(Domenico dall'Oglio)、ピエトロ・ペーリ(Pietro Peri)らイタリア人音楽家の薫陶と感化を受ける。1765年より宮廷楽団員となり、やがて楽長に昇進した。また芸術アカデミーにおいてヴァイオリン教師を務める。1785年に農奴の身分から解放され、ポチョムキンとともにイェカチェリノスラフに音楽院を設立するが、この努力は破綻し、1789年にペテルブルクに戻っている[1]。
実生活については大半が不明のままであり、その死後に誤ってハンドシキン作として伝えられてきた作品も多い[2] 。主要な作品に、《ヴァイオリン二重奏のための6つのソナタ》や《無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタ》のほかに、ヴァイオリンと通奏低音楽器のための《ロシアの唄による変奏曲(Chansons Russes variées)》や、ヴァイオリンとヴィオラのための《ロシアの唄による6つの変奏曲(Six chansons russes avec des variations)》、ヴァイオリン二重奏のための《ロシアの唄による6つの変奏曲(Six chansons russes avec variations)》と《ロシアの唄による変奏曲(Chansons Russes variées)》、さらに管弦楽のための2つの《ポロネーズ》とヴィオラ協奏曲がある。ハンドシキンの作風は、西欧の音楽とロシア音楽の特徴を煉り合せたものである。