アンタキヤ
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アンタキヤ(Antakya)は、トルコの都市。古代シリア地方北部の主要都市アンティオキアの後身であり、歴史的シリアのうちトルコ領に編入された地域にあたるハタイ県の県都となっている。1997年の統計で人口約140,000人。ラテン語名はアンティオキア。
シリア・アラブ共和国からトルコ共和国ハタイ県を経て地中海に注ぐアスィ川(古代のオロンテス川)中流の河岸に位置し、シリア地方北部の政治、経済の要衝である。しかし、市内には古代以来の建造物はほとんど残っておらず、博物館に集められたローマ時代のモザイクや、郊外にわずかに残る古い教会からわずかに古代を偲ぶことができるのみである。
アンタキヤを中心とするハタイ県は元来シリア地方の北西部にあたり、住民のかなりの部分がアラブ系の出自をもっているとされる。この地方は現在もアラビア語のシリア方言とトルコ語の多言語話者が多い。
[編集] 歴史
アンタキヤの前身アンティオキアは、紀元前4世紀にセレウコス朝シリアによって建設されたヘレニズム都市で、セレウコス朝の首都として繁栄をきわめた。紀元64年にローマ帝国によって征服された前後から、初期キリスト教の布教の拠点になり、のちに五大総主教座とされた。
その後徐々に衰退し、7世紀にイスラム帝国の手に移って以降、北シリアにおける政治・経済・宗教の中心は内陸のダマスカスやアレッポに移った。その後、ビザンツ帝国、セルジューク朝、アンティオキア公国の支配を経て、1286年にマムルーク朝が征服。イスラム教の支配のもとでアラブ化・イスラム化が一層進展した。
1516年には、オスマン帝国がマムルーク朝を倒してシリア地方を征服した。オスマン帝国のもとでアンタキヤはアレッポ州の一地方都市となり、トルコ人の多い北のアナトリア方面との関係から、トルコ系住民も流入した。
第一次世界大戦終結時、イギリス軍の侵攻はアンタキヤまで達せず、オスマン帝国のもとに保持されていたが、アラブ系住民による独立運動もあってトルコ革命によるトルコ軍の奪還は及ばず、アンカラのトルコ大国民議会は1921年にフランスと条約を結んでシリアとともにアンタキヤの領有を放棄した。
フランスはアンタキヤを含むシリア北西沿岸部を委任統治領シリアに編入し、アレクサンドレッタ県を置いたが、その人口の過半数がトルコ系住民であったことから、トルコではこの地方へのトルコ編入を求める声が大きく、フランスとトルコの間の外交問題となった。
やがて、トルコとアレクサンドレッタ県のトルコ系住民は、アレクサンドレッタ県とその中心都市であるアンタキヤを、当時のトルコの歴史観において原トルコ人の国家とみなされていたヒッタイトにちなんでハタイと呼称し始め、トルコ系住民による政治組織ハタイ人民党が結成されて、トルコへの編入運動を行った。ハタイのトルコ系住民はトルコ共和国の近代化改革に追随してトルコ民族意識を涵養し、トルコの文字改革を取り入れてトルコ語をラテン文字で書くようになった。
1936年、フランスはシリアを近い将来に独立させることを承認したが、アレクサンドレッタ県はトルコ政府とトルコ系住民の反対運動にもかかわらず、フランス委任統治領シリアの北部に予定されるシリア共和国に編入されることが決まったため、トルコは国際連盟にこの問題を提訴した。連盟はハタイ自治州を設立し、トルコ語を公用語として自治政治を行う代わりに財政・外交をシリアに管理させる仲裁案を提示、1938年に独立を前に最初の選挙を行うことを決定したが、この情勢下であくまでトルコへの編入の推進派と反対派の間で流血事件が続発し、帰属問題は混乱した。
1938年8月に実施されたハタイ議会選挙の結果、議会ではトルコ系住民の議員が過半数を占めた。トルコ系議員は独立ハタイの樹立を宣言し、翌1939年7月、トルコへの併合を決議した。結局、第二次世界大戦を目前にしたフランスは、トルコがドイツ・イタリアの枢軸陣営に接近することを恐れて譲歩し、ハタイのトルコ帰属を認めた。