アルーシャ
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アルーシャ(Arusha)は、タンザニアの都市。タンザニア連合共和国を構成する地域の1つ、タンガニーカの北東部に位置し、グレートリフトバレー内の高原にある。アルーシャ州の州都。人口は約27万人(2002年)と推定されている。
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[編集] 都市
主要作物であるコーヒーやサイザル麻の栽培が盛んだが、輸送の中心地でもあり、インド洋に面した国内最大都市であるダルエスサラーム、同じくインド洋の都市タンガ、そしてケニアの港湾都市モンバサと鉄道でつながてっいる。またアルーシャ周辺にはセレンゲティ国立公園やオルドバイ峡谷、キリマンジャロ山、ンゴロンゴロ保全地域など、世界的に有名な観光スポットが数多く存在するため、それらへ向かう観光客の玄関口の役割も果たしている。
[編集] アルーシャ宣言
1967年、タンザニア連合共和国初代大統領であったジュリウス・ニエレレがアルーシャ宣言を発表。タンザニアの社会主義化をすすめ、中国との結びつきを強める一方、経済の自立化を図り農業の集団化を導入した。結局この計画は農業生産の激減などで失敗に終わり、ニエレレの政治生命を短くしてしまったが、彼の政策は一般にウジャマー村構想として知られ、アフリカ部族社会独自の社会主義的農業経営方法であるウジャマーを重視し、銀行や企業の国営化などの統制経済により社会の平等化を図る彼の理想主義の現れであった。アフリカ人による独自路線の追求は、欧米の援助を頼る追従路線をとっていた他の途上国に、少なからず影響を与えたといえる。
[編集] 会談・協定の地 アルーシャ
アルーシャは1961年、タンザニアの前身となるタンガニーカ共和国の独立宣言を、イギリスが承認した地でもある。またタンガニーカとザンジバルによる国家連合(タンガニーカ・ザンジバル連合共和国、後のタンザニア連合共和国)樹立が宣言されたのも、アルーシャであった。その後アルーシャは会談・協定の地として、いくつもの国際会議を開催し、その名は調停役としてのタンザニアの名と共に、広く世界に知られるようになる。
1993年8月4日、ルワンダ紛争の仲介をタンザニアが担当し、アルーシャで和平協定が調印された。これに伴い、ルワンダでは暫定政府が樹立され、戦闘は一応の収束を見た。ただし、この後戦闘は再開され、1994年7月まで続いた。この際に行なわれたジェノサイドの責任追及のための国際裁判所、ルワンダ国際戦犯法廷がアルーシャに設置されている。また2006年7月3日、アフリカ連合によりアルーシャにアフリカ人権裁判所が設置された。
タンザニアを含む東アフリカ共同体の機構本部が市内に設置されている。