せん子女王
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嫥子女王(せんし(よしこ)じょおう、寛弘2年(1005年)-没年不詳)は、平安時代中期の皇族。伊勢斎宮。村上天皇皇孫で、具平親王の三女。母は為平親王女。源隆姫(藤原頼通室)や源師房らは同母兄弟である。関白藤原教通室。
幼少時に資子内親王の養女となり、義兄の頼通の後見を受けた。長和5年(1016年)2月三条天皇譲位のため退下した当子内親王に替わり、斎宮(後一条天皇の斎宮として)に卜定された。斎宮別当には伯父源顕定が補任されている。同年9月宮内省にて初斎院に入る。寛仁元年(1017年)9月野宮に入り、翌年の寛仁2年(1018年)9月群行。長元4年(1031年)月次祭に出席の最中、俄かに神がかりし、斎宮寮頭夫妻やその家来らの悪事や政治の乱れなどを告発する託宣を下したと記録される。長元9年(1036年)後一条天皇の崩御により退下した。その後、47歳のとき藤原教通と結婚した。以後の消息は不明だが、二条上御方と呼ばれて平穏な結婚生活を送っていたらしい。教通との間に子供はなかった。永保元年(1081年)には既に故人になっていたらしく、彼女の遺産を巡って甥源俊房と継子藤原信長が紛争を起こしている。