あゝ上野駅
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『あゝ上野駅』(ああうえのえき)は、1964年に発表された日本のポピュラーソング。
[編集] 概要
関口義明が上野駅で見かけた集団就職の少年たちを題材に詞を書き、農家向け家庭雑誌『家の光』の懸賞に応募、1位入選を果たした。これを見た東芝レコードの近藤秀男によりレコード化され、当時ほぼ無名の若手歌手だった井沢八郎が歌った。1位入選作は大物歌手によってレコード化されるという触れ込みであったため関口は落胆したが[1]、歌手を志して青森県から単身上京した井沢自身の人生も重なり、発売後まもなく「金の卵」と呼ばれた集団就職者などから支持と共感を得て、高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲となった。いわゆる団塊の世代を中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲であり、井沢八郎の代表曲との呼び声も高い。
2001年12月、東北本線にリバイバル急行「津軽」号が運転された際、出発セレモニーで井沢はこの曲を歌い、駅長と共に「津軽」号の発車の合図をした。2003年には上野駅に歌碑が建立された(後述)。
2007年1月に井沢八郎が亡くなると、『第39回思い出のメロディー』(NHK、思い出のメロディー、2007年8月11日放送)で追悼として氷川きよしが歌唱した。
また、娘である工藤夕貴は父の死後の会見で、「『あゝ上野駅』は、パパの残してくれた大きな宝物。だから、『あゝ上野駅』は私が歌い継いでみせます。」と宣言している。
[編集] 歌碑
2003年、元プロボクサーのファイティング原田や集団就職で上京した中小企業経営者らによる有志団体によって上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立され[2]、同年7月6日に井沢八郎や作詞者の関口義明、吉住弘台東区長、上野駅長、有志関係者ら約2,000人が集まって除幕式が行われた。
歌碑は高さ2.6メートルで、C62形蒸気機関車や駅に降り立ち荷物を持ちながら歩く学生服姿の若者達が描かれたレリーフ板と歌詞の銘板からできている[3]。上野駅界隈のご当地ソングとして広く知られるため歌碑も観光名所の一つとなっている。建立費用や維持費など計2,000万円は、ほぼ寄付で賄われたという[4]。
[編集] 脚注
- ^ 日本経済新聞2007年2月23日夕刊
- ^ 東奥日報2003年8月25日「あゝ上野駅」の歌碑
- ^ 「あゝ上野駅」歌碑画像ほか
- ^ 47NEWS「あゝ上野駅」の歌碑完成 除幕式で井沢八郎さん熱唱