M26パーシング
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M26パーシング重戦車 | |
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性能諸元 | |
全長 | 8.65 m |
車体長 | 6.33 m |
全幅 | 3.51 m |
全高 | 2.78 m |
重量 | 41.9 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 161 km |
主砲 | 50口径90mm砲M3×1 |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1 7.62mm機関銃M1919×2 |
装甲 | 砲塔防盾114 mm 砲塔前面101.6 mm 砲塔側面76.2 mm 砲塔後面76.2 mm 車体前面上部101.6 mm 車体前面下部 76.2 mm 車体側面76.2~51.4 mm 車体後面51.4 mm |
エンジン | フォードGAF6002B V型8気筒液冷ガソリンエンジン 500 hp / 2,600 rpm |
乗員 | 5名 |
M26パーシング とはアメリカ軍が第二次世界大戦末期に実戦配備した重戦車(1946年5月に中戦車に分類変更)で、ドイツ軍の重戦車に対抗するために開発された。それまでの米軍戦車に付けられた愛称は、供与された英軍によるものであったが、本車は初めて米軍自身によって命名された。「パーシング」の名称は第一次世界大戦時のアメリカの将軍、ジョン・パーシングからとったものである。試作型のT26E3は1944年11月から生産開始され、ドイツの降伏までに700輌以上が完成、最終的には1945年の末までに合計2200輌以上が生産された。
目次 |
[編集] 概要
アメリカ軍は、第二次世界大戦中期にM4戦車を主力としていたが、同戦車は機械的信頼性には優れていたが、チュニジアやシチリア島、イタリア戦線でのティーガー戦車との交戦において、装甲火力共に正面から対抗できるものではないことが判明していた。
その当時、アメリカ軍の戦車に与えられていた使命は歩兵を支援して陣地を突破することであり、敵戦車に対しては軽快で強力な砲を持つ駆逐戦車をあてることを基本としていた。このため米軍が製作した重戦車はM6やT14のような歩兵戦車的な代物しか無く、しかもAGF(陸軍地上軍管理本部)の極端な兵器統一思想により大して生産されず、更なる新型の開発に対しても消極的であった。ティーガーに遭遇した経験から要求された、対戦車戦闘能力の期待できる90mm砲を搭載する新型として、T25E1中戦車と装甲強化型のT26E1重戦車が試作され、1944年5月の段階で前者が30輌、後者は10輌完成していたが、持論をゴリ押しするAGFの妨害によりその採用と配備は遅延していた。
特に前線司令官としてティーガーの脅威を知っていたデヴァーズ中将は、ヨーロッパ反攻作戦の開始までに「装甲でも火力でも対抗できる重戦車T26E1を量産し、M4戦車5輌に対し1輌を配備すべきだ」と、陸軍省に対し強く主張したほどであった。しかし「ティーガーは少数であり、滅多に遭遇するものではない」「M4こそが総合的に最高であり、砲の威力も十分である」等と主張するAGFのマクネアー中将は新型重戦車の実戦配備に強行に反対した。 だがしかし、これはとんでもない間違いであった。実際に西ヨーロッパでの反攻作戦が始まると、前線のアメリカ戦車はティーガーよりも遥かに遭遇率の高い[1]パンターにすら満足に伍すことができず大きな損害を出してしまったのである。また他の戦車や対戦車兵器による損害を加えると、M4の乗員の損耗率は最初の一ヶ月で32%にも達していた。ロレーヌ地方での戦いのように、戦術を駆使してパンターに対抗できた部隊もあったが、前線の兵たちからはより強力な戦車を求める声が多数寄せられ、損害の大きさから軍の内部にも批判の声があがっていた。また当時米軍戦車に搭載された砲の中で、最も貫徹力のある3in M7や76mm M1A1(共に口径76.2mm)戦車砲で捕獲したパンターに対する射撃実験を行ったところ、車体正面装甲を撃ち抜けないことが判明した。この報告は、AGFの「新型シャーマンの76mm砲の威力は十分でティーガーにも対抗できる」との主張を信じ込まされ、T26E1の導入に賛成しなかったアイゼンハワー連合軍最高司令官を激怒させた。このような状況にもかかわらず、あいかわらずAGFは新型戦車の導入に抵抗し続け、T25E1の主砲を威力の劣る75mmや76mm砲に変更したタイプを作るように主張するなど、前線での現状を認めようとはしなかった。
[編集] 構造
M4シャーマンの後継候補として、1943年5月にT20の試作型が完成した。これはM4A3と同じフォードV8水冷式エンジンを搭載して車高を下げ、足回りはHVSS型ボギー式サスペンション、主砲は後にM4シリーズに搭載される76mm M1系であった。変速機やトランスミッション、エンジンは一体化したパワーパック式となっており、起動綸も後部にある。これはM26やその後のアメリカ軍主力戦車まで続く、共通のレイアウトとなった。後に足回りをトーションバー式に変更したT20E3、ガス・エレクトリック式のハイブリッドエンジンを搭載したT23シリーズなどを経て、通常型のエンジンに戻したT25E1、T26E1といったM26の原型に至っている。
T26/M26シリーズの砲塔は鋳造、車体は鋳造と圧延鋼板の溶接組み立て構造であった。砲塔は油圧で旋回、途中から搭載弾薬を増やすために床下の弾薬庫が乾式に戻され、砲弾を取り出しやすいように砲塔バスケットが廃止された。即応弾薬は砲塔内部左側面に備えられ、表側には増加装甲代わりに予備履帯が取り付けられている。装填手用の座席が砲塔リング部に付けられており、砲塔の旋回に追従できるようになっていた。
主砲の90mm M3はドイツ軍重戦車に対抗できる威力を持ち、1000ヤード(914m)先の30度傾けた装甲板に対する貫徹力は、APC弾で127mm、HVAP弾で176mmであった。
[編集] ヨーロッパ戦線への投入
1944年12月、ドイツ軍の行ったアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)において、初めてまとまった数で投入された新型重戦車ティーガーIIは米軍防衛線を一方的に蹂躙突破[2]したとされた。後の戦争映画などのイメージとは異なり、先陣を切って戦ったのはパイパー戦闘団所属のパンターであり、ティーガーは後衛で事実とは少し違っていたのだが、以前から連合軍兵士の間には「タイガー恐怖症」("Tiger phobia")[3]が蔓延しており、この時の敗北がそれをさらに悪化させた。自軍の戦車がドイツ軍重戦車に対抗できないという事実は、とうとうアメリカ国内の新聞記事でスキャンダル的に扱われてしまった。これを無視できなくなった兵器局は、この段階でロールアウトしていたT26E3の生産数の半分である20輌を実戦試験の名目で配備、残り半数はフォートノックスで通常の試験に用いると緊急に提案した。これに対し、自分たちの失策を認めないAGFはまたもや反対したが、参謀総長の前で事の白黒をつけると兵器局長に恫喝され、一転して弱腰となった。こうしてT26E3の投入はなし崩し的に決定され、同時に戦車の技術的な問題点を確認するための「ゼブラ調査団」が送り込まれた。
1945年1月、ようやく20輌のT26E3が第3機甲師団に実戦配備され、後の4月にはM26パーシング重戦車として制式化された。ヨーロッパ方面には約300輌のM26が送り込まれたが、終戦までに部隊配備が間に合ったのはその2/3程にすぎなかった。
実戦では1945年2月にエルスドルフ近郊で、ティーガーの攻撃により1輌が被弾損傷し死傷者が出たものの、後に修理されて復帰。二日後にティーガーと2輌のIV号戦車を撃破した。この後、レマゲン鉄橋では歩兵支援を行なっている。3月にはケルン近郊でナースホルン自走砲に1輌が撃破され、これは大戦中に全損となった唯一のパーシングであった。さらにこの後、今度はかろうじて遭遇したパンターやティーガーI、IV号戦車を撃破してみせたところで終戦を迎えることとなり、実戦に参加できたのは最初の20輌に留まった。
なお本来M26はティーガーIに対抗するものであり、データ的には火力においてティーガーIIに劣り、機動力においてはパンターに劣っている。このため、ティーガーIIに対抗できる長砲身の90mm砲であるT15E1(HVAP弾は距離914mで30度傾斜した220mm装甲を貫徹)を搭載、さらにボイラー用鋼板と遺棄されたパンターの装甲から切り出した増加装甲で強化した、T26E4スーパーパーシングが1輌実戦配備され、4月に一発で敵重戦車(形式不明)1輌を仕留めている。これは急遽作られたもので、砲のバランスをとるための巨大な平衡装置が外部に露出していたが、内部収納型の油圧式に改良したものが25輌生産され、さらに1000輌のM26をこのタイプに改修する計画もあった。しかし強力な代わりに分離式の薬莢を用いるT15E1は発射速度に劣り、終戦を迎えたこともありキャンセルされてしまった。
[編集] 太平洋戦線への投入
M26の太平洋戦線への投入は1945年3月末に開始された沖縄戦が初めてだと言われるが、同年2月の硫黄島の戦いに実践評価のため既に投入されていたとする説もある。[4]。
M26は日本軍上層部に「M1重戦車」の名称で認識されていたが、これはアメリカのT1試作重戦車の情報が誤って伝えられたものである。日本軍の認識では「M1重戦車」の装甲は正面で150mm、側面76mmであり、M4中戦車以上のこの強敵にどのように対応するか対策に苦慮していた。
沖縄では日本軍の一式機動四十七粍速射砲の待ち伏せ攻撃により、M4に予想以上の損害が発生していた。このため急遽M26が派遣されることとなったが間に合わず沖縄戦は終結、その後は日本本土上陸作戦のために待機したまま終戦を迎えた。
[編集] 朝鮮戦争とその後
M26はその後、90mm M3戦車砲のマズルブレーキがシングルバッフル式となり排煙器の付いたM3A1となり、縦方向の砲安定機能が追加されたM67A1砲架を装備したM26A1に改良された。
M26は1950年に勃発した朝鮮戦争に投入され、火力と装甲でT-34-85を圧倒した。しかし重量のわりにアンダーパワーであったため、山がちな朝鮮半島では機動性に問題があり、戦局が落ち着くと現場の戦車兵に「M4の方が優れている」などと言われる始末であった。このため後にエンジンとトランスミッションを変更した発展型であるM46パットンが作られ、前線に配備された。
実は韓国国防部は1949年末に189輌(戦車大隊3個分)のM26の供与をアメリカに申し入れて合意に達し、1950年会計年度に入ってから引渡しが始まる予定であった。しかしその前に北朝鮮が侵攻してしまい手遅れとなり、韓国軍は戦車無しで朝鮮人民軍と戦わなければならなくなってしまったのである。
M26で確立された設計思想は少しずつ改良を加えながら、M60まで引き継がれていった。
[編集] 注釈
- ^ この段階で、従来型のドイツ戦車に対するパンターの配備比率は46%であった。
- ^ M4はより強力な76.2mm砲とHVAP弾の組み合わせをもってしても、ティーガーIIやパンターの車体正面装甲を貫徹できなかった。
- ^ 例えばティーガーIのような角ばったシルエットに対し過敏になり、四角い小屋を反射的に砲撃して破壊してしまうなど、大きなストレスに晒されていた。
- ^ 硫黄島ノ戦訓 「敵ハ初メテM1重戦車ヲ使用セリ」
「M1重戦車」は元山飛行場防衛戦に参加。距離600mで九〇式野砲にて射撃するも貫徹せず、逆に「電波音響探知機」を使用した銃眼射撃により1000mの距離から九〇式野砲陣地を破壊。「M1重戦車」の行動はきわめて慎重で、陣地効力圏外から電波標定による銃眼射撃に徹した。
[編集] 関連項目
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軽戦車 | M2軽戦車 · M3スチュアート · M22ローカスト · M24チャーフィー |
中戦車 · 重戦車 | M2中戦車 · M3リー · M4シャーマン · M26パーシング |
駆逐戦車 | M10ウルヴァリン · M18ヘルキャット · M36ジャクソン |
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