M・カルナーニディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
M・カルナーニディ(மு. கருணாநிதி : M. Karunanidhi)は、タミル人の政治家、文学者。タミル・ナードゥ州のドラーヴィダ進歩党の創立者たちの一人であり、2006年現在同党の党首である。同州の州首相を現在務めており、非連続ながら5期目である。
目次 |
[編集] 人名
M・カルナーニディの「M」は「ムットゥヴェール」の公式表記で、父名。したがって非公式にはカルナーニディ・ムットゥヴェール(கருணாநிதி முத்துவேல் : Karunanidhi Muthuvel)となる。
多くの著作や劇作などがあることから、カライニャル(கலைஞர் ; Kalaignar)「学芸の智者」とも呼ばれる。
[編集] 生涯
[編集] 出自及び学歴
インドのタミル・ナードゥ州ティルヴァールール県ティルックヴァライにて、1924年6月3日に生まれた。
初めは、タミル映画の脚本家として活動した。歴史劇や神話劇を多く作り、ドラヴィダ人の復権を訴える内容を持たせていた。
[編集] 政治家としての経歴
演説のうまさと機知により、政治家として頭角を現す。
1949年のドラーヴィダ進歩党の創立に中心的な役割を果たした一人である。1957年にクリッタライ選挙区から初出馬し、以来出馬した10回の選挙戦ではすべて当選を果たしている。
インド政府によるヒンディー語の公用語化案に対しタミル語の起源の古さなどを論じ、政府の施策は押し付けであるとして強硬に反対した。
1961年ドラーヴィダ進歩党の経理部長。1962年から野党代表を務め、1967年に党が政権を得ると、州の公共事業担当相となる。1969年にドラーヴィダ進歩党の党首となり、以後継続してその座にある。同年に州首相となる。
1977年にドラーヴィダ進歩党が野党に転落すると、1983年まで再び野党代表の立場となる。しかし1983年にスリランカのタミル人独立運動との関わりで辞任、選挙には出馬しなかった。
1989年に党が与党となると、再び州首相に就任したが、1991年に辞職。
1996年から2001年には再び州首相を務めるが、2001年の選挙で党が野党となったため州首相を辞職した。
2001年6月30日には、陸橋工事をめぐる詐欺容疑で逮捕されたが、これに反発する支持者たちによる大規模な暴動に繋がった。本人は健康上の理由で釈放された。この他、反ヒンディー語運動の扇動、鉄道駅名の恣意的な変更、物価高騰の責任、スリランカのタミル人独立運動への関与などの罪状で、多くの投獄経験を持つ。
2006年5月の統一地方選挙でドラーヴィダ進歩党が勝利したことから、同党党首であるカルナーニディは再び州首相に就任した。
息子のM・K・スターリンも政治家であるが、世襲の権力継承になるとする反対が強まっている。また、妻が二人いることも、インドの法律に反していることもあり、批判されている。
[編集] 略年表
- 1924年6月3日:インドのタミル・ナードゥ州ティルヴァールール県ティルックヴァライにて誕生。
- 1949年:ドラーヴィダ進歩党の創立に参加。
- 1957年:クリッタライ選挙区から初出馬、当選。
- 1961年:ドラーヴィダ進歩党の経理部長(-1969)。
- 1962年:野党院内代表(-1967)。
- 1967年:タミル・ナードゥ州の公共事業担当相(-1969)。
- 1969年:ドラーヴィダ進歩党の党首。タミル・ナードゥ州の首相となり、第一次カルナーニディ内閣を組閣(-1971)。
- 1971年:第二次カルナーニディ内閣を組閣(-1977)。
- 1977年:野党院内代表(-1983)。
- 1983年:スリランカのタミル人独立運動との関わりで辞任。
- 1989年:第三次カルナーニディ内閣を組閣(-1991年)。
- 1996年:第四次カルナーニディ内閣を組閣(-2001年)。
- 2001年6月30日:陸橋工事をめぐる詐欺容疑で逮捕。後に健康上の理由で釈放。
- 2006年5月:第五次カルナーニディ内閣を組閣。
[編集] 家庭 親族
インドの法律では一夫多妻制が禁止されているが、妻は二人いる。子は四男二女がいる。
- 長男:M・K・スターリン
カルナーニディの兄弟の孫息子であるダヤーニディ・マーランも政治家として活動しており、2006年現在はインド政府の通信・情報技術相である。
[編集] 映画化
映画イルヴァルが、カルナーニディとM・G・ラーマチャンディランとの政争を描いた映画として知られている。
[編集] 関連事項
[編集] 外部リンク
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|