高梨氏
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高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。
[編集] 略歴
高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、源家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。しかし系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦の際は、井上一族では無く北安曇の仁科氏らと行動を共にしているので、当時の慣習から見て別の一族とされていた可能性がある。
高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城資茂率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していた事が伺われる。
続く南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏六代目)との抗争に高梨五郎・高梨時綱・高梨経頼らの名前が出てくる。更に応永七年(1400)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回り、南北朝時代に勢力拡大に成功した事が伺われる。
室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている(「上高井歴史」より)。また地理的に近い越後にも所領があったことから越後守護代の長尾氏と関係を強めるが、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。
高梨政盛の代に、長尾能景に嫁いだ娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となる。そして永正四年(1507)、為景が越後守護上杉房能を殺害する際に支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景を一旦は放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正十年(1513)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。
しかし永正十年(1513)に政盛が死去、越後では為景と守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していく事となる。更に善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、以後高梨氏は弱体化していった。
それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555~1558)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。
武田氏の滅亡後、北信濃を任された森長可が本能寺の変により撤退、代わって上杉景勝が進出するのに伴って高梨氏は旧領に復帰することができた。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、政頼の子・高梨頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。
この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。