高仙芝
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高仙芝(こう・せんし、Gao Xianzhi, 生年不詳 - 755年)は高句麗系の唐の将軍。タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。
旧唐書高仙芝伝によれば、本高句麗の人で、父の名は舎鶏とある。高句麗は668年に唐に滅ぼされており、多くの高句麗人が唐に連行されている。高は高句麗の王姓なので、あるいは高句麗王族の子孫かとも思われる。父が河西軍に従軍して功績があったので、二十歳余で将軍を拝した。
747年安西副都護・高仙芝はチベットと結んだ小勃律を破り、その王を捕らえた。この功により同年安西四鎮節度使に任命されている。749年にはホータン王とともにチベット軍を破り、750年にはパミール高原を越えて西トルキスタンのタシケント(石国)に至り、その王を捕らえ財宝を奪った。当時、勃興したばかりのイスラム・アッバース朝の勢力が西トルキスタンに及び始めており、諸国の訴えを聞いたホラーサーン総督アブー・ムスリムがイスラム軍を派遣、751年タラス河畔の戦いで高仙芝の唐軍を破った。中国軍3万のうち2万が失われたが、高仙芝はこの敗戦の責任を問われることはなかった。しかし、755年安禄山が反乱を起こし、洛陽を占領すると、高仙芝は敵前逃亡の罪を着せられて処刑された。
[編集] 外部リンク
- 旧唐書高仙芝伝(漢文、簡体字)