飯山城
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飯山城 (長野県) |
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飯山城の石垣 |
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城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | ? |
築城主 | 泉氏 |
築城年 | 室町時代 |
主な改修者 | 上杉謙信、岩井信能 |
主な城主 | 泉氏、上杉氏、岩井氏、関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯36度51分23.03495秒 東経138度21分58.50146秒 |
飯山城(いいやまじょう)は、長野県飯山市飯山にあった城郭。戦国時代には上杉氏と武田氏の戦いの舞台となり、江戸時代には飯山藩の藩庁が置かれた。
目次 |
[編集] 概要
築城は永禄7(1564)年に越後の上杉謙信が信濃一円に勢力を伸ばしてきた甲斐の武田信玄に対抗して、越後の防御・信濃計略の前線基地として本格的に築城した「上杉輝虎書状案」によると、1564年10月1日に謙信自ら譜代の完了を確認した事が分かる。東部は千曲川、西部は山地に囲まれた地にあり、城郭は丘陵をならした平山城である。
戦国時代には上杉氏の城郭となり、武田勢に備えるため改修された。
江戸時代になると、皆川氏、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と目まぐるしく城主が替わった。享保2年(1717年)、本多助芳が越後糸魚川より入封すると、以降本多氏10代が明治維新まで飯山城に居を構えた。
明治元年(1868年)、旧幕府軍の攻撃を受け城下を焼かれた(飯山戦争)。廃藩後は、城の建物は取り壊されたり、焼失によって失われている。
[編集] 構造
丘陵上に、本丸、二の丸、三の丸を南北に連ね、西側山麓に西郭、北に外郭があり、南方山麓から外郭まで、周囲には1重の堀が巡っていた。
建造物は、本丸、二の丸、三の丸に、ぞれぞれ、居館、政庁、櫓が設けられ、門は全部で12棟あった。天守はなく二重櫓を代用としていた。また、西郭には重臣の屋敷が軒を連ねていた。
[編集] 遺構
本丸は葵神社境内となり、二の丸は城址公園として整備されている。本丸から二の丸にかけて、石垣および土塁が残る。
建造物としては、南中門跡に民家から2層の城門が再移築され現存している。また、不開門が飯山市の妙専寺に、裏門と伝わる門が長野市田子の民家に、どこの門かは定かではないが城門が中野市江部の民家に、それぞれ移築され現存している。この他に、2層部分を焼失しているが、長野市の信雙寺に大手門が移築され現存している。