阮元
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阮元(げんげん、1764年-1849年)は、清朝の官僚、学者。字は伯元、号は芸台、江蘇省儀徴の人。揚州の塩商の出身。乾隆帝時代の進士。湖広・両広・雲貴総督をへて体仁閣大学士にまですすむ。
浙江の学政(文教担当)となって『経籍纂古』百六巻を編纂し、巡撫のとき杭州に詁経精舎を建てた。両広総督のときには学海堂を建てて後進を養成し、『皇清経解』千四百巻を刊行した。江西巡撫の時には日本の山井鼎の『七経孟子考文』を参酌して『十三経注疏校勘記』四百十六巻を編纂したことは有名である。乾隆・嘉慶の漢学を、編纂、彙刻の面で集大成し、漠学の実証的方法を提唱した最後の学者であった。閻若璩の『尚書古文疏証』や胡渭の『易図明辯』のような重要な書は、古い漢儒の経典を批判したという理由で排斥した。「凡古必真、凡漢皆好」、つまり文献は古いほど真であり、漢の時代のものはすべて好いという「漢学」の規準によって顧炎武、黄宗羲らの名著も斥けられた。阮元の編纂した『学海堂経解』はこの点で功罪半ばする。しかし後年になって方東樹の漢易批判を受けて、宋学と漢学の調和を考え直してもいる。
金石学の面で貫献するところがあり、鐘や鼎のような器の形を離れてそこに書かれている銘文を訓詁学によって研究する方法は清朝金文学の基本となった。省の地誌・歴史である『浙江通志』『広東通志』『雲安通志』の総編纂者は阮元である。
著書に『疇人伝』『淮海英霊集』『鐘鼎款識』『山左両浙金石志』『性命古訓』などがあり、文集には『揅経室文集』がある。
梁啓超の子である梁思成の丁文江あて書簡には、学海堂についてつぎのように言う。「学海堂は省都における経学研究の場所です。学海堂の歴代の学長は、金紀堂、陳蘭甫、黎大椿、陳梅坪、梁禹生らの諸先生で、毎月二回講学が行なわれます。毎月、奨学金があり、優秀なものには銀数両が給され、広東唯一の大学機関です。当時の級友には、麦孺博、譚仲鸞、曾剛甫らがいました」(丁文江『年譜稿』)。学会堂出身では梁啓超が知られている。