藤原賢子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原賢子(ふじわら の けんし・かたいこ、天喜4年(1057年)-応徳元年9月22日(1084年10月24日))は、第72代白河天皇中宮。父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。太政大臣藤原師実の養女。
延久3年(1071年)3月9日、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内する。同5年(1073年)7月23日白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年(1074年)6月20日長子敦文親王誕生に伴い中宮となる。承保4年(1077年)敦文親王を亡くすも、承暦3年(1079年)善仁親王(堀河天皇)を出産。ほかに、媞子内親王(郁芳門院)、令子内親王、禛子内親王を生んだ。28歳で崩御。
賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかった。これを見かねた権中納言源俊明が、天皇は穢れに触れてはいけないからと遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。
ともあれ白河天皇の嘆きは一方ならず、応徳3年(1086年)円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院、勝楽院、常行堂などを建てて供養した。陵は京都市伏見区の上醍醐陵。