藤原愛発
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藤原 愛発(ふじわら の ちかなり/ちかのり/よしちか/よしあきら/あらち、延暦7年(788年) - 承和10年9月16日(843年10月16日))は平安時代初期の宮廷政治家。藤原内麻呂の八男。母は依常大神の娘。正三位、式部大輔、大納言、参議。
仁明朝の宮廷において皇太子恒貞親王の舅としてその側近集団の中核をなす。このため、道康親王(後の文徳天皇)の擁立を目論む甥の藤原良房と徐々に対立を深めた。
承和9年(842年)に承和の変が勃発すると、良房の弟良相が近衛兵を率いて恒貞親王邸を包囲。ここに出仕していた愛発は藤原吉野や文室秋津らとともに謀反人として逮捕されてしまう。さらに詮議の結果京都郊外に放逐となり、二度と政界に復帰することはなかった。
愛発の後任の大納言には良房が就任し、これを契機にその権力基盤を固めていった。