藤原季行
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藤原 季行(ふじわら の すえゆき、永久2年(1114年) - 応保2年(1162年))は平安時代末期の公卿。藤原北家道綱流、刑部卿藤原敦兼の三男。母は藤原顕季の娘。兄弟に季家ら、子に重季、定能らがある。従三位。讃岐三位と号す。
天治2年(1125年)叙爵。以後、諸国の国司や太宰大弐などを歴任する。保元元年(1156年)には讃岐守の職にあり、同年の保元の乱の後讃岐へと流罪になった崇徳上皇の護送を担当した。保元4年(1159年)、妻が乳母を務めていた高松院(姝子内親王)が二条天皇の中宮となると、中宮亮に任ぜられる。平治元年(1159年)に従三位、非参議に至る。
娘の一人が藤原兼実の妻となり、良通、良経を生むなど、摂関家とも良好な関係を築いた(この縁により良経は高松院の猶子となっている)。歌舞音曲に通じ、篳篥をよくしたことが伝えられている。また和歌にも秀で、千載集に一首が入選している。
後世、その子孫は楊梅家や二条家となって続いたが、中世に至り断絶している。