薄昭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
薄昭(はくしょう、?-紀元前170年)は、前漢の人。文帝の母である皇太后薄氏の弟。
[編集] 略歴
姉の薄氏は漢の高祖劉邦の子、劉恒を産んだ。劉恒が代王に立てられると薄氏は代太后となってともに代に住んだ。薄昭は高祖7年(紀元前200年)に郎となり、従軍していたが、姉に同行し、代へ行った。
呂后8年(紀元前180年)、呂后が死亡し呂氏が滅ぼされると、代王劉恒が皇帝に擁立された。のちの文帝である。この際、薄昭は中大夫として文帝を代から迎え、即位後には車騎将軍として皇太后となった薄氏を代から迎えた。
文帝前元年(紀元前179年)には将軍となり、この年に軹侯(一万戸)に封じられ、文帝より重んじられた。
淮南王劉長に驕慢、不遜が目立つと、文帝は薄昭に劉長を諌める書を出させた。
文帝前10年(紀元前170年)、薄昭は使者を殺害した罪で自殺した[1]。
軹侯は易侯薄戎奴が継いだ。
その後、文帝が薄昭を自殺させた事は、皇帝が罪のある外戚を殺す際の前例としてしばしば引き合いに出されている。
[編集] 参考文献
巻4文帝紀、巻18外戚恩沢侯表、巻44劉長伝、巻97上薄姫伝
[編集] 脚注
- ^ 『漢書』顔師古注引鄭氏によると、文帝は薄昭を処刑するのを望まず、彼に大臣と酒を飲ませ自殺を促したが自殺せず、群臣に喪服を着せ彼のところで哭させたところ、自殺したという。