肝付兼護
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肝付 兼護(きもつき かねもり、永禄4年(1561年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は肝付兼続の三男。大隅の肝付氏十九代当主。
1574年に兄の肝付兼亮は島津氏に臣従することを余儀なくされた。しかし兼亮は伊東氏と友好関係を結んでいたため、母や重臣達によって追放される。兼護は他家に養嗣子として出されていたが、その後継者として呼び戻され、当主として擁立された。
このような経緯もあり、兼護には実権が無かった。所領は高山城のみ安堵されたが、1580年にはその所領を没収され、ここに大名としての肝付氏は事実上滅亡となる。その後の肝付氏は島津氏の一家臣として遇されることとなったのである。
そして1600年、関ケ原の戦いで兼護は島津義弘に付き従い、決死の関ヶ原敵中突破で討死した。兼護死後、家督は嫡男の兼幸が継いだ。
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