聖骸布
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聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud)は、キリスト教でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されていることから、「トリノの聖骸布」(Shroud of Turin)とも呼称される。
[編集] 特徴
本体は、縦4.36m、横1.1mの杉綾織の亜麻布(リンネル)である。生成りに近い象牙色の布の上に、痩せた男性の全身像がネガ状に転写されているように見える。裏には当て布があてられ、はがすと人物の姿は見られず、血の染みのみが見られる。布上に残された全身像の痕跡より、頭を中心に縦に二つ折りにして遺骸を包んだと見られ、頭部には血痕が残っている。また、1532年にフランス・シャンベリの教会にて保管されていた際に火災に遭い、その一部を損傷した。
[編集] 来歴
1353年、伝存の経緯は不明であったが、フランス・リレのシャルニー家が所有しているところを発見された。いくつかの所有者、保管場所の変遷などを経て、1453年に所有がサヴォイ家に移り、1578年にはトリノへ移動された。1898年にイタリアの弁護士・アマチュア写真家セコンド・ピアが、初めて聖骸布の写真を撮影した。1983年にサヴォイ家からローマ教皇に所有権が引き渡され、以降はトリノ大司教によって管理されている。現在は一般に向けて常時公開されてはおらず、最近ではカトリック教会の大聖年にあたる2000年に一般公開された。次回の一般公開予定は2010年である。
[編集] 聖骸布の真偽について
聖骸布は、その発見以来、長き言い伝えと共に、キリストの遺骸を包んだ布であると信じられてきた。褪色、劣化などを防ぐ目的で一般への公開が控えられたことで、その神秘性がより大きな話題を呼ぶことになった。その真偽については、これまでにも一般公開された機会などに合わせて専門家による科学的調査が進められてきた。
これまでの調査では、その信憑性について支持的なものから懐疑的なものまで、結果は多岐に渉る。あるときは顔料で描かれた絵であると推定されたり、後年の創作物であると結論づけられたこともあった。
1973年にスイスのフライ博士によって行われた聖骸布の花粉調査では、レバノン杉をはじめ、49種類の花粉粒が発見された。しかし、これはあくまでそう言う花粉粒が発見されたというだけであり、聖骸布が中東方面から来たとする絶対的な証拠となるわけではない。
1988年の調査では、オックスフォード大学、アリゾナ大学、スイス連邦工科大学の3機関において、考古学などで資料年代推定に用いられる放射性炭素年代測定(炭素14法年代測定)が行われた。その結果、この布自体の織布期は1260年から1390年の間の中世である、と推定された。同様の方法を用いた別の調査結果では、死海文書の年代、すなわち紀元後1世紀頃という年代が出されたこともある。 しかしながら、これらの調査結果については異論を唱える声も多く、過去の修復作業時に付け足された部分をサンプルとした測定であった、布の半分以上が微生物が作り出すバイオプラスティックで覆われていて結果には大きな誤差が出た、など検査方法の有効性や結果の信憑性について批判がなされている。
また、ネガ状の全身像についても、どのような過程でそこに付着したのか、もし後年作成されたものであったとしてもどのような材料や方法でそれを作成したのか、などまだ不明な点が多い。
いずれにしても、その真偽については依然として決定的なことは言えず、現在も世界中で様々な研究が行われている。