目黒雅叙園
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株式会社目黒雅叙園(かぶしきがいしゃめぐろがじょえん)は、東京都目黒区で目黒雅叙園(結婚式場・ホテル・レストランなど)を運営する企業。
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[編集] 解説
石川県出身で立身出世の創業者・細川力蔵が、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯および岩永省一邸を入手[要出典]し、増改築を進めて1931年(昭和6年)に目黒に開業した料亭で、国内最初の総合結婚式場でもあった。(それより以前1928年(昭和3年)には、東京・芝浦にある細川力蔵の自邸を改築し、芝浦雅叙園という「純日本式料亭」を経営していた。)
本格的な北京料理や日本料理を供する料亭だったが、メニューに価格を入れるなど当時としては斬新なアイディアで軍人や政治家、華族層以外の普通市民の料亭利用者を増やした。また、中華料理店で一般に見られる円形のターンテーブル(二層構造の円形テーブル上部に料理を載せ回転させることで取りやすくするもの)も細川力蔵の発明で、その後に中国大陸へ伝わったものである、という説もある。しかしLazy Susanと呼ばれるターンテーブル自体は、18世紀のイギリスにすでに存在していたので、細川力蔵の発明と断言はできない。
目黒雅叙園(旧木造館)は太宰治の小説『佳日』にも登場する。絢爛たる装飾を施された園内の様子は<昭和の竜宮城>とも呼ばれ、保存建築「百段階段」は国の登録有形文化財に登録されており、映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、通常は公開されていないが、希望者は申請すれば観覧が可能となっており、定期的に食事とのセットで一時公開されることもある。
1991(平成3)年の全面改築は日建設計および鹿島建設によるもので、このリニューアルに際し、園内のエレベーター壁面や室内に使われた螺鈿や漆による装飾は、韓国の漆芸家・全龍福(チョン・ヨンボク)によって新たに制作、もしくは修復された。一階にある化粧室の内装も彼の手による漆工芸によって装飾されている。
昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。
創業者・細川力蔵亡き後は、合資会社雅叙園として同族による経営が成されてきたが、これを受けた運営会社である雅秀エンタープライズが2002年に経営破綻し、外資ファンドにより買収された。現在の株式会社目黒雅叙園として再建の後、2004年ワタベウェディング傘下となる。
同一敷地内に全面改築時に建設されたオフィスビルのアルコタワーを有していたが、現在は別資本である。
目黒雅叙園・旧木造館
[編集] 概要
[編集] 内部リンク
[編集] 備考
- 隣接していた雅叙園観光ホテルは元来目黒雅叙園の新館(洋館)であったが、1948年興行師の松尾國三が経営に乗り出して雅叙園観光株式会社が設立され、分離。合資会社雅叙園は地主として同ホテルとの関係を持っていたが、事実上目黒雅叙園と雅叙園観光ホテルは全く別物となった。
- 雅叙園観光はかつて静岡県三島市に三島雅叙園を、横浜市戸塚区にホテルエンパイアを、神戸市葺合区(現在の中央区)にニューポートホテルをそれぞれ経営していた。東証一部上場企業であり、松尾が経営していた日本ドリーム観光の姉妹会社であった。松尾没後に経営権争奪が起こり、雅叙園観光と日本ドリーム観光は分離。雅叙園観光は結局その過程に於いてイトマン事件に巻き込まれ、1997年に倒産。経営していたホテルもすべて閉鎖され現存しない。
- 雅叙園観光倒産時に、目黒雅叙園では「当『目黒雅叙園』とは一切関係がありません」と異例の新聞広告を行った。
- 雅叙園観光ホテル跡地は目黒雅叙園の手に戻り、現在エントランス棟の建設工事が行われている。