清仏戦争
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清仏戦争(しんふつせんそう)は、1884年から1885年にベトナム(越南)の領有を巡って起きたフランスと清との間の戦争。
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[編集] ベトナムの植民地化
19世紀初めにベトナムには阮朝が成立したが、領土の拡張を目指すナポレオン3世治世のフランスは、ベトナムへの数度にわたる挑発行動の後、1857年に発生したベトナムによるキリスト教徒迫害の報復として、翌1858年にスペインと共に攻撃、侵攻した(第一次仏安戦争)。1862年まで続いた攻撃によって、ベトナムはサイゴン条約(第一次)でコーチシナのフランスへの割譲を認めた。これを糸口に、フランスは翌年にカンボジアを保護国とし、1869年にコーチシナ3省を領有した。その後本国ではナポレオン体制が崩壊したが、1873年に再度攻撃、第二次仏安戦争となり、翌年に第二次サイゴン条約を締結した。
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さらに、フランスはベトナム全土の領有を画策し、1882年に三度目の攻撃をかけ、首都ハノイを制圧してしまった。ここにおいて阮朝を属国と見なし、宗主国を自負していた清はベトナムに支援を行い、1883年6月に劉永福の軍団がフランスに挑戦、緒戦で打撃を与えたが、すぐに中部ユエを攻略され、8月にユエ条約(アルマン条約)でフランスはベトナムを保護国とした。
1884年6月には第二ユエ条約によってベトナムの軍事権を掌握したが、李・フルニエ協定を両国が拒否、8月にフランス艦隊が台湾を封鎖し、全面戦争が始まった。フランス軍は翌1885年2月に寧波を封鎖、しかし3月に清が反攻して国境のランソンを攻略した。イギリスの調停で1885年6月9日に天津条約(李・パトノール条約)が調印され、清はアンナンとトンキンの主権を放棄し戦争が終了した。
[編集] インドシナ植民地の完成
フランスはすでに掌握したベトナムとカンボジアを併合してフランス領インドシナ連邦を建設、1893年にはラオスを保護国として連邦に組み込み、植民地が完成した。この体制は、第一次インドシナ戦争によって連邦が解体するまで続いた。