浅野知近
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浅野 知近(あさの ともちか、? - 元和5年11月26日(1619年12月31日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将で安芸広島藩浅野家の家老。浅野氏の一族。子に知吉。別名は浅野良重、浅野氏重、浅野氏定。官途は左衛門佐。
16世紀末に、一族の惣領である浅野長政の甲斐入国に従って同国内で都留郡を知行。文禄2年(1593年)に勝山城を改築した。翌年には北口本宮冨士浅間神社の西宮本殿を造営している。長政の家督をついでいた浅野幸長が、関ヶ原の合戦の功により紀伊へ加増転封。知近はこれに従って田辺3万石に入部し、同11年(1606年)に湊城を築いて筆頭家老の任についた。
幸長が慶長18年(1613年)に卒すると、知近は後継に幸長の三弟である浅野長重を推した。しかし次弟の浅野長晟が紀州藩主をついだため長晟の下で大坂の陣に参戦している。夏の陣では同じ浅野家重臣の亀田高綱らと樫井の戦いで大野治房と交戦。治房が率いていた塙直之、淡輪重政の軍勢を破った。
元和5年(1619年)の福島正則の改易から長晟の安芸広島への転封が決まり、知近は広島城を受取の任を務めている。ところが、備後の三原で城代としての地位を望んだ知近に対し、長晟が三次3万石をあてがったことから対立し、同年11月26日に長晟に誅された。子の知吉も切腹。墓所は広島県広島市の国泰寺。法号は義正院松雲相岩禅定門。