楊醜
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楊醜(よう しゅう、? - 198年?)は、中国の後漢時代末期の武将。
[編集] 正史の事跡
姓名 | 楊醜 |
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読み・ピンイン | ようしゅう〔Yáng Chǒu〕 |
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 198年(建安3年)? |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 張楊 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
河内郡を根拠地とする大司馬張楊配下の将軍。主君の張楊は同郷の誼から呂布とは親友の仲にあり、建安3年(198年)に呂布が曹操の猛攻によって徐州に追いつめられたとき、張楊は呂布を救援しようとした。
ところが、日頃から主君と仲が悪かったうえ、曹操に寝返ろうと考えていた楊醜は、建安3年(198年)11月、張楊を殺してその首を曹操への手土産にしようとした。しかし、主君を殺されたことに怒った同僚の眭固によって、楊醜も殺されてしまったのである。没年は同じ建安3年、あるいは翌建安4年(199年)とも考えられる。
なお、『後漢書』孝献帝紀は建安3年11月に張楊は盗賊に殺された、同董卓伝は建安4年に楊醜に殺された、と記載しているが、本記事では、時期につき前者の説をとり、加害者は後者をとる。
[編集] 物語中の楊醜
『三国演義』にも楊醜は登場するが、正確には、曹操への情報伝達で名前が出るのみと言える。