松平治好
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 治好(まつだいら はるよし)は、越前福井藩の第13代藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 明和5年3月25日(1768年5月11日) | |||
死没 | 文政8年12月1日(1826年1月8日) | |||
別名 | 於義丸(幼名) | |||
戒名 | 威徳院 | |||
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 東京都品川区南品川の海安寺 |
|||
官位 | 正四位下、左近衛権中将 | |||
藩 | 越前福井藩主 | |||
氏族 | 越前松平家 | |||
父母 | 父:松平重富、母:徳川宗将の娘・致姫 | |||
妻 | 正室:田安宗武の娘・定姫 側室:山下氏、千種氏 |
|||
子 | 4男5女:松平斉承(三男)、松平善道(四男)、 箏(松平斉孝正室)、謹(阿部正弘正室)) |
明和5年(1768年)3月25日、第10代藩主・松平重富の長男として江戸で生まれる。天明3年(1783年)に元服して徳川家治から「治」を賜って治好と名乗る。寛政11年(1799年)9月18日、父の隠居で家督を継いで藩主となる。文化4年(1807年)に医学所である済世館を創設するなどの功績もあったが、幕命による隅田川普請や江戸藩邸の焼失、さらに治好自身が叔父の一橋治済と共に奢侈を極めるなどしたため、藩財政がいちじるしく悪化した。
文化15年(1818年)3月、嫡子の斉承が徳川家斉の娘・浅姫と婚約したため、5月に2万石を加増されて32万石の大名となった。文政8年(1825年)12月1日、江戸で死去した。享年58。
後を嫡子の斉承が継いだ。
|
|
|