松平乗友
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 宝暦10年10月22日(1760年11月29日) | |||
死没 | 文政7年10月4日(1824年11月24日) | |||
別名 | 歓次郎(幼名)、玄圃(法号) 大隅入道(隠居後) |
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墓所 | 東京都港区赤坂の浄土寺 | |||
戒名 | 観誉玄圃呑海蓬蝋院 | |||
官位 | 従五位下、兵部少輔、大隅守 | |||
藩 | 三河奥殿藩主 | |||
氏族 | 大給松平家 | |||
父母 | 父:松平乗穏 母:太田資俊の養女(太田資晴の娘)・芳春院 |
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兄弟 | 松平乗統、松平乗友、渡辺綱光 松平乗尹 |
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妻 | 正室:戸沢正諶の娘 側室:てる(知止院)、滝川氏、いさ、ます 清橋氏 |
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子 | 渡辺規綱(長男、はじめ松平乗詮と名乗った) 松平乗羨(次男)、娘(畠山国祥正室) 娘(筧正隅養女、筧正陽室)、娘(馬場某室) 娘(小野某室)、養子:松平乗尹 |
松平 乗友(まつだいら のりとも)は、三河奥殿藩の第4代藩主。奥殿藩大給松平家6代。
宝暦10年(1760年)10月22日、第3代藩主・松平乗穏の次男として生まれる。兄の松平乗統が早世したため、安永5年(1776年)10月19日に世子になる。天明2年(1782年)11月21日、父の隠居で家督を継いで第4代藩主となり、12月18日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。
天明3年(1783年)に浅間山の噴火が起こると大被害を受け、救済に務めた。直後の天明の大飢饉でも被害を受けたが、餓死者を出さずに解決している。しかし天明5年(1785年)には大坂加番に任じられるなど、出費が相次いで藩財政の悪化により、天明6年(1786年)と寛政元年(1789年)に倹約令を出した。寛政元年(1789年)9月21日には大隅守に遷任する。寛政2年(1790年)2月、36か条の5ヵ年倹約令を出すが、直後の3月6日に弟で養子の乗尹に家督を譲って隠居した。
しかし乗尹が病弱だったため、隠居後も藩政の実権を握って政務を行なった。文化元年(1804年)7月23日に剃髪して大隅入道と号した。享和2年(1802年)12月2日に乗尹が隠居すると、自らの次男・乗羨を第6代藩主に擁立して藩政の実権をなおも掌握した。しかし晩年には側室のてる(知止院)が9人の男子、4人の女子を産んでいたことから藩の権力を掌握するようになり、それによって奥向きの出費が増大して藩財政が悪化し、さらに乗友とも対立するようになったため、乗友はてるやその側近らを信濃に配流している。
文政7年(1824年)10月4日に死去。享年65。
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