李子通
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政権 | 呉 |
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廟号 | (なし) |
諡号 | (なし) |
姓・諱 | 李子通 |
生没年 | 生年不詳 - 622年 |
在位期間 | 619年 - 621年 |
父 | |
母 | |
陵墓 | |
元号 | 明政:619年 - 621年 |
李子通(りしつう、生年不詳- 622年)は、隋末唐初の民衆叛乱の指導者。東海郡丞県(現在の山東省嶧県)の漁民の子として生まれた。
大業末年、李子通は長白山の賊の左才相の下に身を寄せた。李子通は仁愛で知られ、帰順する者が多く、半年もたたずに一万人あまりを集めた。左才相にその名声を妬まれたため、その下を離れて淮水を渡り、杜伏威に合流した。隋将の来整に敗れて海陵(現在の江蘇省泰州)に逃れ、将軍を自称した。615年、楚王を僭称した。
618年、宇文化及が煬帝を殺した後、江都太守の陳稜が江都を守っていた。李子通が江都を攻撃したため、追いつめられた陳稜は沈法興と杜伏威に救援を求めた。李子通の部下の毛文深が沈法興と杜伏威のあいだを離間し、二勢力が牽制しあっている隙に、李子通は江都を奪取した。619年、江都で皇帝を称し、国号を呉、元号を明政と定めた。丹楊に拠った楽伯通を降して、尚書左僕射に任じた。また沈法興を破って晋陵を奪い、李百薬をはじめとした江南の士人の多くを帰順させた。
しかし間もなく杜伏威の部下である輔公祏に破れ、江都を捨て長江を渡り余杭(現在の杭州)へと逃れ再起を図った。621年に再度杜伏威に敗れると、楽伯通とともに長安に連行された。高祖李淵は邸と畑を与えて厚遇したが、622年に楽伯通と語らって乱を図り、藍田で捕らえられて処刑された。