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朝鮮通信使 - Wikipedia

朝鮮通信使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは日本へと派遣された李氏朝鮮からの国使の名称である。

目次

[編集] 起源

朝鮮通信使のそもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断された。その後、江戸時代に再開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。

[編集] 室町時代の朝鮮通信使

室町時代の朝鮮通信使には日本の国情視察目的も密かに含まれており、例えば1428年正長元年)派遣の使節に同行した書記官の申叔舟が著した『海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など国力状況の観察、日本での仏教の展開状況をはじめ15項目の調査内容があったという。

室町時代には3度来日し、1459年長禄3年)や1479年文明11年)にも派遣計画があったが来日しなかった。これは、使者が途中で死亡したことや渡航の危険を理由として説明されるが、偽使(守護大名や国人が将軍の名前を詐称して勝手に交渉すること)の横行や日朝貿易の不振により、必要性が減殺したためだと説明されることもある。その後豊臣政権まで約150年間にわたって中断した。

1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる[1]

[編集] 室町期朝鮮通信使履歴

回数 目的・名称等
第1回 1428年正長元年) 通信使
第2回 1439年永享11年) 通信使
第3回 1443年嘉吉3年) 通信使

[編集] 豊臣秀吉に派遣された通信使

1590年(天正18年)に豊臣秀吉に派遣された通信使(12月3日11月7日)に秀吉に謁見)は名目としては秀吉の日本統一を祝賀することが目的であったが、朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使である。このときも対馬宗氏が仲介を行っている。この際の正使黄允吉と副使金誠一が対立関係にあったために正使は侵攻の意思ありと報告し副使は侵攻の意思なしとの報告が行なわれ、王に近い副使側の意見が採られた。文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのはこの副使の報告に従い、なんら用意をしていなかったためともされる。

1596年(慶長元年)の通信使は日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明使(冊封使)の日本への派遣に同行したものであったが、正使・黄慎と副使・朴弘長は共に秀吉より接見を許されなかった。明使の交渉も失敗し慶長の役の再出兵が行われた。

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[編集] 豊臣秀吉朝鮮通信使履歴

回数 目的・名称等
第1回 1590年天正18年) 通信使
第2回 1596年慶長元年) 通信使

[編集] 江戸時代の朝鮮通信使

江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。

室町時代末期、日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。

主として対馬藩江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使者も偽造を黙認した。後に、対馬藩家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪とされた。詳細は柳川一件を参照のこと。

一方、朝鮮では文禄・慶長の役が終わり、朝鮮を手助けした明が朝鮮半島から撤退すると日本を恐れ、友好関係を何とか結びたいという考えを持っていたようである[2]

こうした中、対馬藩の努力によって1607年(慶長12年)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され6月29日5月6日)、家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷還使とされている。日本に連れ去られた儒家陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的という意味である。このうち儒家はほとんどが帰国した一方、陶工の多くが日本に留まったとされる。これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り出す陶工を大名が藩の庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をしていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想による身分制において陶工は最下層の賤民に位置づけられ、奴隷的な労働を強いられるとともに、失策を犯した場合には体罰を課せられるという過酷な状況にあり、職人に対する根源的な差別があったことが原因である。[3]

その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府から通信使派遣の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。

通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬関を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取ったが、近江国では関ケ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道の通行を認許している。この道は現在でも朝鮮人街道野洲市より彦根市)とも呼ばれている。吉例の道であり、大名行列の往来は許されなかった街道である。このルート選定については、信使一行に対する敬意を示しているという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図[4]があったのではないかとする見方もある。

その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになった。計12回の通信使が派遣されているが、1811年文化8年)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶した。幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主として軍事的な理由において漢城まで上る事を朝鮮側から拒否され、釜山に貿易目的で設立された倭館で返礼の儀式が行われた。唯一の例外は1629年(寛永6年)に漢城に送られた僧を中心とした対馬藩使節であるが、これは後金の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされている。なお、この際にも対馬藩側は李氏朝鮮に対して中国産の木綿を輸出を依頼し、成功している。また、倭館には貿易のために対馬藩士が常駐していた。

通信使について当時の日本人らは「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」などという噂をしており[5]、幕府の公式文書では「来貢使」という用語は一切使われていないにも関わらず、民間では琉球使節と同様に一方的な従属関係を示す「来貢」という言葉が広まっていた[6]。『朝鮮人来聘記』等においても三韓征伐等を持ち出して朝鮮通信使は朝貢使節であると見なしており、当初から日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる。また、朝鮮側も日本側が入貢と見なしていたことは認識していた。延享度の通信使の朝鮮朝廷への帰国報告では、信使の渡来を幕府は諸侯に「朝鮮入貢」として知らせており、それまでの使節もそれを知りながら紛争を恐れて知らぬふりをしていた旨が記されている[7]

11回の来日のうち、主要な出来事を記すと次のようになる。

[編集] 1636年(寛永13年)朝鮮通信使の待遇改定

通信使は柳川事件の翌年に、それまで柳川家主導で応対されていたものが対馬宗氏の手によって招かれた。これは幕府によって宗氏の力量が試されたという側面も存在している。ここにおいて接待、饗応の変更がなされた。これは日本側の主導によるもので、変更の骨子は、第一に、朝鮮側の国書で徳川将軍の呼称を日本国王から日本国大君に変更すること(この「大君」呼称の考案者は京都五山の高僧・玉峰光璘である)、将軍側の国書では「日本国源家光」とした。第二に親書に記載される年紀の表記を干支から日本の年号に変更するということ、第三に使者の名称を朝鮮側が回答使兼刷還使から通信使に変更するというものである。将軍の呼称変更と、年紀表記変更の理由は次のように説明される。

そもそも「国王」称号や「干支」の使用は中華秩序における冊封体制の残滓であり、中華帝国を頂点として周辺諸国を従属国視する、伝統的東アジア外交秩序そのものであり、いまこそ、その体制から離脱を図り、かつ朝鮮側にもそれを認知させようとしたのだ、という論である[要出所明記]。その一方で「国王」称号は国内的には天皇をさすため、これに遠慮し次善の策として「大君」を用いたという、もっぱら国内的要因に鑑みての変更にすぎないではないかという論もあり[要出所明記]、議論の決着を見ていない。いずれにせよこの制度改定は、後述の正徳度来日の際のような深刻な外交問題には発展しなかった。

その理由としては当時、李氏朝鮮は北方から後金の圧迫に忙殺されていたため、日本側の制度変更にあえて異論を挟まなかった、あるいは挟む余裕がなかったとされる。この来日の際には、幕府に朝鮮国王直筆の親書、銅鏡が進呈され、また使節団が神君とされる大権現家康が眠る日光東照宮を参拝をしたことが、国内的に大々的に喧伝され、幕府権威の高揚に利用された。

[編集] 正徳度朝鮮通信使の待遇改定

正徳期には待遇の簡素化と将軍呼称の変更がされた。この制度改定は新井白石の主導によるものだが、これは従来の饗応、待遇を全面的に変更するものであり、結果として日朝間の外交摩擦に発展する。通信使接遇には一度に約100万両(1両=1石換算で幕府の直轄領約400万石の1/4に相当する)かかるものであり、もともと白石は来日招聘そのものに反対であった点が注目される。しかし当時の老中首座土屋政直が従来どおり来日を招聘すべしと異論を挟んだため、白石も折れた経緯がある。そこで、白石は、「対等」「簡素」「和親」を骨子として、まず待遇を簡素化し、対馬から江戸の間で宴席は赤間関鞆の浦大坂京都名古屋駿府の6ヶ所に限定し、他の宿所では食料の提供にとどめることとし、接待には通過する各藩の藩主が出向かずともよいことにした。接待に使用する小道具も蒔絵の塗り膳や陶磁器の高価なものは厳禁した。これらの努力により接待費用を60万両に抑える一方、将軍呼称を再び日本国王に変更した。

この変更の理由としては江戸時代も安定期に向かい、将軍の国内的地位が幕初の覇者的性格から実質的に君主的性格に移行した現実を踏まえ、「国王」を称することにより徳川将軍が実質的意味において君主的性格を帯びるようになったことを鮮明にせんとしたとも、あるいは、「大君」は朝鮮国内においては王子のことを指すので、これではむしろ対等ではないので国王に戻すのだとも説明されている。

呼称の当否は別とし、この変更は朝鮮通信使の来日直前に一方的に通告されたため、深刻な外交摩擦に発展し、将軍の名分をめぐって林信篤や対馬藩藩儒雨森芳洲も巻き込んで日朝双方を果てしない議論にまき起む結果となった。なお、正徳の次に来日した享保度の通信使の際には徳川吉宗は名分論には深入りせず、再び大君に復し、待遇も祖法遵守を理由に全面的に天和度に戻している。

[編集] 文化度朝鮮通信使の接遇改定

1787年天明7年)、11代将軍に徳川家斉が就任した。本来であれば早速通信使来日となるのだが、老中松平定信は、1788年(天明8年)に延期要請の使者を、また1791年寛政3年)には江戸にかえて対馬での招聘を打診した。交渉は難航し、結局20年後の1811年(文化8年)にようやく実現した。この頃になると日朝双方とも財政難であり、経費節減志向でようやく一致したのである。ただ、幕府の出費節減はなったが、国内的な将軍権威の発露というもうひとつの意義は損なわれた。

そのため1841年天保12年)、徳川家慶が将軍につくと、老中・水野忠邦は江戸招聘から大坂招聘に変更する計画を立案している。西国大名を接待に動員することで大名の勢力削減をおこない、一方で幕府の権威を示し、かつ大坂・江戸間の行列を圧縮することにより幕府の経費を節減できるという一石三鳥の効果を狙ったものである。しかしこの計画は幕府内の反対にあい計画は頓挫し、以後幕府滅亡まで通信使来日の計画はのぼらなくなった。

[編集] 江戸期朝鮮通信使履歴

回数 西暦(元号) 朝鮮暦 主権者 朝鮮正使 名称 目的
第1回 1607年(慶長12年) 宣祖40年 徳川秀忠 呂祐吉 回答兼刷還使 日朝国交回復、捕虜返還
第2回 1617年(元和3年) 光海君9年 徳川秀忠 呉允謙 回答兼刷還使 大坂の陣による国内平定祝賀、捕虜返還
第3回 1624年(寛永元年) 仁祖2年 徳川家光 鄭岦 回答兼刷還使 家光襲封祝賀、捕虜返還
第4回 1636年(寛永13年) 仁祖14年 徳川家光 任絖 朝鮮通信使
第5回 1643年(寛永20年) 仁祖21年 徳川家光 尹順之 朝鮮通信使 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
第6回 1655年(明暦元年) 孝宗6年 徳川家綱 趙珩 朝鮮通信使 家綱襲封祝賀
第7回 1682年(天和2年) 粛宗8年 徳川綱吉 尹趾完 朝鮮通信使 綱吉襲封祝賀
第8回 1711年(正徳元年) 粛宗37年 徳川家宣 趙泰億 朝鮮通信使 家宣襲封祝賀
第9回 1719年(享保4年) 粛宗45年 徳川吉宗 洪致中 朝鮮通信使 吉宗襲封祝賀
第10回 1748年(寛延元年) 英祖24年 徳川家重 洪啓禧 朝鮮通信使 家重襲封祝賀
第11回 1764年(明和元年) 英祖40年 徳川家治 趙曮 朝鮮通信使 家治襲封祝賀
第12回 1811年(文化8年) 純祖11年 徳川家斉 金履喬 朝鮮通信使 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

[編集] 通信使接待状況

地名 接待に動員された大名 宿所 備考
対馬府中 対馬藩宗氏 西山寺
国分寺
壱岐勝本浦 平戸藩松浦氏 勝本浦阿弥陀堂
筑前藍島 福岡藩黒田氏 藍島客館 玄界灘の離島に専用の接待施設が設けられていた
長門赤間関 長州藩毛利氏 阿弥陀寺、引接寺
周防上関 長州藩毛利氏 上関御茶屋館(藩迎賓館)
安芸蒲刈 広島藩浅野氏 御茶屋(藩迎賓館)
備後鞆浦 備後福山藩(*1) 対潮楼(海岸山福禅寺境内) (*1)第10回は宇和島藩伊達村候、第11回は岡藩中川久貞が福山藩に代って担当した
備前牛窓 岡山藩池田氏 本蓮寺、御茶屋(藩迎賓館)
播磨室津 姫路藩 御茶屋(藩迎賓館)
摂津兵庫 尼崎藩大坂町奉行 阿弥陀寺
摂津大坂 大坂町奉行
和泉岸和田藩岡部氏(*2)
北御堂の西本願寺津村別院(*3) (*2) 第1回は片桐貞隆、第2回は堺奉行と大坂の豪商が接待を担当した
(*3) 第1回は寺沢広高肥前国唐津藩主)の大坂屋敷、第7回は東本願寺・難波別院が宿所に使用された
山城 山城淀藩 御馳走屋敷
山城京都 京都所司代
膳所藩
本国寺(*4) (*4) 本国寺以外にも大徳寺(第1回-第3回)や本能寺(第9回)が宿所に使用された
近江守山 御馳走役大名 東門院
近江彦根 彦根藩井伊氏 城下の宗安寺(彦根城下)
美濃大垣 大垣藩戸田氏 不明
尾張名古屋 尾張藩徳川氏 大雄山性高院
三河岡崎 岡崎藩 御馳走屋敷(藩迎賓館)
三河吉田 吉田藩 不明
遠江浜松 浜松藩 不明
遠江掛川 掛川藩ほか 民家
駿河藤枝 田中藩ほか 大慶寺
駿河興津 御馳走役大名 正見寺
御茶屋(迎賓館)
伊豆三島 御馳走役大名 世古本陣
相模箱根 小田原藩 不明
相模小田原 小田原藩 片岡本陣
相模藤沢 御馳走役大名 蒔田本陣
相模神奈川 御馳走役大名 石井本陣
武蔵品川 御馳走役大名 東海寺(*5) (*5) 第9回より
武蔵江戸 将軍 浅草東本願寺 第7回までは本誓寺(馬喰町)

[編集] 朝鮮通信使の見た日本

朝鮮通信使の見た日本については第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙が書いた記録である『日東壮遊歌』に詳しい。また鞆の浦の景観を朝鮮通信使が高く評価し、日本で最も美しいとしたことも記録に残っている(第8次通信使)。

[編集] 大韓民国の歴史教育における朝鮮通信使

大韓民国の歴史教育においては、朝鮮通信使を以下のように教えている。

壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年(光海君2年)、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした[8]

[編集] 交流

前述のように朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。同時に鎖国を国是としていた当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れることのできる数少ない機会でもあり通信使の宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらした。藤原惺窩をはじめとした儒家同士も交流があった。

江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆の浦(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年元禄3年)に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿から対岸に位置する仙酔島弁天島の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年(寛延元年)に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額にしたものが対潮楼内に掲げられている。

通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽であった[9]反面、通信使の往来路であると否とにかかわらず、武蔵・相模以西の東海道・畿内・西国の農民には労役の提供や費用の負担が求められ[10]、通信使の来朝は農民達にとっては臨時に重い負担を強いられるものでもあった[11]。そして、文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる[12]、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる[13] 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり[14]といった乱暴狼藉を働くものもあった。警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年宝暦14年)には大阪の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで起こっている。

また一説には、友好使節のはずの朝鮮通信使が、当時の朝鮮人と日本人の間の文化の違いからかえって偏見を生み、のちの征韓論植民地支配に繋がったとする考えがある[15]。当時の日本人には朝鮮人の肉食文化が野蛮なものに見えたことが原因であるとし、その根拠として『画図入(えずいり)朝鮮来聘記全』内の狂詩における「通信使が寺の中に魚や肉を持ち込んで食い散らかしている」という表現、及び淀藩の資料『朝鮮人来聘記』内の朝鮮聘礼使淀城着来図の絵に描かれたうちの一部(右図)を「通信使一行が町人の飼っている鶏を盗んで逃げようとし、日本人と喧嘩になっている」様子だとしたうえで挙げている。また『朝鮮人来聘記』や『朝鮮人来朝記』といった当時の資料に、三韓征伐秀吉朝鮮出兵を持ち出して朝鮮通信使を朝貢使節と見なそうとしている記述があることも併せて論拠としている。

その一方、基本的に日本人を「倭人」として見下しながらも古く室町には平仮名片仮名と言った固有文字の存在に、江戸時代には京都、大阪、江戸といった都市の絢爛豪華さに驚いた。1420年の回礼使である宋希景は乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上げた(その時の李氏朝鮮では、都市部で楮貨という紙幣が流通していた程度で、貨幣経済と呼ぶに足るものが成立しておらず、布・米を媒体とした物々交換が主であったため)といった記録が残っており、また、朝鮮で後に飢饉を救ったサツマイモ(宝暦度 1764年(宝暦14年))や揚水式水車など、日本から相応の文物を持ち帰っていたようである。特に歴代の朝鮮通信使は日本の揚水式水車に興味を示し、幾度もその構造を絵図面に写して自国に持ち帰ったものの、その後に李氏朝鮮でこの種の水車が用いられたという歴史がないことから実現はしなかったようである。ただしこのような事実は、現在の韓国の歴史認識と背反しているため、韓国側では日本側による捏造・歪曲とされることが多い。またこのような史実を日本側が主張することで、韓国側に反発が起こることも多い。

[編集] 絵画、工芸、芸能に伝わる朝鮮通信使

現在、日本の各所に通信使来日の際に筆写された行列絵巻が残っている。とくに正徳時に老中土屋政直の命令によって大量に作成されたが、対馬藩に残る『正徳度朝鮮通信使行列図巻』はその典型である。他にも当時の画家英一蝶が描いた『朝鮮通信使小童図』や紀州藩に伝わる『朝鮮通信使御楼船図屏風』が著名である。

日本の街道を練り歩く使節団の姿は、太平の世にあっては物珍しいイベントであった。朝鮮通信使を模したもので、今日にも伝わる著名なものとして唐人おどり鈴鹿市東玉垣町、津市分部町)、唐子おどり(岡山県瀬戸内市牛窓)の3件がある。大名行列とは異なり、朝鮮通信使は正使や副使などの外交官の他に随行員には美しく着飾った小童や楽隊、文化人、医師、通訳などが加わっており、江戸時代を通じて庶民にとっては数十年に一度やってくる異国情緒を持った一種の見世物として沿道の民衆にも親しまれていた。上述の『朝鮮通信使小童図』には馬に乗った小童に町人が揮毫(現代で言えばサイン)を求める様が描かれており、随行員には庶民が簡単に接触できたようである。さらに滋賀県東近江市五個荘小幡人形などには通信使人形(正確には唐人人形。随行員である小童や楽隊の人形)があり、異国より献上された象などとともに当時の人気キャラクターであったことがうかがわれる。

また歌舞伎・浄瑠璃の文芸作品に朝鮮通信使を題材として扱ったものが存在する。1764年(宝暦14年)の宝暦度の来日の際、対馬藩の家臣で通詞を担当していた鈴木伝蔵が朝鮮通信使の通詞・中官崔天宗を大坂で殺害する事件が起こったが、1767年明和4年)には『世話料理鱸包丁』(『今織蝦夷錦』)、1789年(寛政元年)には『漢人韓文手管始』、1792年(寛政4年)には『世話仕立唐縫針』など、いずれもこの一件を土台に作成された文芸作品である。

[編集]

  1. ^ 下條正男『日韓・歴史克服への道』
  2. ^明史 列伝 第二百八 朝鮮』 秀吉死我軍尽撤、朝鮮畏倭滋甚。欲與倭通款、又惧開罪中国(訳;秀吉が死に(明と日本は停戦したため)、我が軍(の軍隊)が全て撤退すると、朝鮮は日本を甚だしく恐れ、日本と友好関係を結びたいと考えたが、その一方で(日本と国交を結ぶことで)明の機嫌を損ねるのではないかと恐れた)。
  3. ^ 下條正男『日韓・歴史克服への道』展転社(1999)
  4. ^ 仲尾宏『前近代の日本と朝鮮』明石書店 (1989) では、元和度における豊臣縁故の方広寺大仏殿での饗応や耳塚見学の強要についても日本側の武威を誇示しようとしたのではないかとの見解が示されている
  5. ^ リチャード・コックス(1623年の閉館まで平戸のイギリス商館長)の日記1617年8月31日ある人々(それは庶民であるが)は、朝鮮通信使が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと将軍は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している『イギリス商館長日記』東京大学史料編纂所
  6. ^ 仲尾宏『前近代の日本と朝鮮』明石書店 1989年
  7. ^ 三宅英利『近世日朝関係史の研究』文献出版(1986)
  8. ^ 『世界の教科書シリーズ 国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店 2000年平成12年)
  9. ^ 文献史料
    *「見物する男女が垣根のように道端をいっぱいに埋めて(1624牛窓)」姜弘重『東槎録』
    *「左右にひしめく見物人の数の多さにも目を見張る(1764江戸)」金仁謙 『日東壮遊歌』
    絵画史料
    *『朝鮮通信使来朝図』神戸市立博物館蔵
    *『朝鮮通信使江戸市中行列図』福岡市立博物館蔵
    *『江戸図屏風』江戸東京博物館蔵
    *『馬上才図』高麗美術館蔵
  10. ^ 「御馳走役」を務めた沿道の大名はその費用を「村高役」として臨時に農民に課し、幕府代官が御馳走役を務めた場合も費用自体は東海・西国の大名に「国役」として賦課されるため、やはり農民に課税される
  11. ^ 仲尾宏「通信使の時代」『図説・朝鮮通信使の旅』明石書店 2000年
  12. ^ 以上洪禹載『東槎録』(1682)にみられる対馬側から要望された禁止事項の一部
  13. ^ 「通信使のおとし子」(2007.7.18 民団新聞)
  14. ^ 山本博文『江戸時代を「探検」する』新潮社
  15. ^ a b 吉田光男 編『日韓中の交流』山川出版社 2004年

[編集] 参考文献

  • 申維翰 著 姜在彦 訳『海游録 朝鮮通信使の日本紀行』、平凡社 東洋文庫 252(1974)ISBN 4582802524
    • 1719年享保4年)、第9回の朝鮮通信使中の、製述官という官僚によって書かれた随行記。
  • 金仁謙 著 高島淑郎 訳『日東壮遊歌 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』、平凡社 東洋文庫662(1999) ISBN 4582806627
    • 1764年宝暦14年)、第11回(最後に江戸を訪れた朝鮮通信使)の三房書記による記述。
  • 仲尾宏『朝鮮通信使 江戸日本の誠信外交』、岩波新書 新赤版1093(2008) ISBN 4004310938
  • 李進熙『江戸時代の朝鮮通信史』、講談社学術文庫1039(1992) ISBN 4061590391

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