ノート:日本の哲学者
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「哲学者」という語で「日本の」「日本に関わる」哲学者を一般に想起できるとは思えませんでしたので、日本の哲学者を設けてこちらにに移動しました。なお、「哲学者」の記事は誰かが記事を書いてくれるまで「思想家一覧」へリダイレクトさせておきます。(Setomanko 14:26 2004年2月8日 (UTC))
ぐっじょぶ。(リダイレクトの仕方が覚えられん)
思想家一覧は西に傾きすぎですね。東をやっている人はGNUに興味ないのだろうか。 仏教学の人たちなんてコーパス使いまくりで西洋古典学と並んでこんぷーた使いの達人 だと思うのですが。Aphaea 15:49 2004年2月8日 (UTC)
[編集] 分類
内村鑑三が追加されておりました。近代日本思想史にとって重要な人だとは思いますが ……キリスト教思想家・神学者等の分類のほうが妥当な気もします。広くとるほうがいいですかね?(北村嘉蔵や小柳義夫は神学者であっても哲学者じゃないよなあたぶん)。
- 思想史上重要な人物なんだったら哲学者の範疇にいれててもいいと思います。マルクスだってただの経済学者だったら思想家一覧には入らないでしょう。一覧同士で重複があるのは悪いことではない、他分野にわたって重要な役割を果たした人なら重複してしかるべきだとおもいます(内村鑑三がどれほどえらいのかは私は知りませんが)。他分野の人が一人入ったからといってその分野の全員を連れてくることもないのでは?(Setomanko 04:05 2004年2月19日 (UTC))
私としては
- 中世まで:神学と哲学に切れ目がないのだからだぶってもしょうがない
- 近世以降:両学問は学問の前提が異なる、なので特定の場合を除き、本人の自己申告を尊重
と考えています。たとえば、日本の哲学者であげたリーゼンフーバー氏などはカトリックの司祭でもありますが、ご自身の論文で信仰を前提とした論証はなさっておられません。一方、内村の場合は、キリスト教思想の擁護(護教論)という色彩が強く感じられます。……といって、彼が神学者だというのも何か変な感じ。。ううむ。
思想史的には無教会主義の創始者のひとりとして、日本のキリスト教受容にかかせない人物であります。主著『如何にして余は基督教徒となりし乎』。内村は第一高等学校のたしか校長までやっていますから、その意味でも影響力は大きい、と考えます。Aphaea