戸高秀樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸高 秀樹(とだか ひでき、1973年3月16日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロボクサーで、WBA世界スーパーフライ級、同世界バンタム級(暫定)王座を獲得。日本人5人目の世界2階級制覇を達成した。
デビューは宮崎ワールドジムだが、1998年に緑ジムに移籍。同ジムから飯田覚士に次ぐ世界王者となった。
現役時代のニックネームは「侍」「雑草王者」。
主な入場曲は2pacの「changes」。バンタム級転向後は、長渕剛の「HOLD YOUR LAST CHANCE」等を使用。
目次 |
[編集] 喧嘩に明け暮れ、高校中退
少年時代は絵に描いたようなやんちゃ坊主。中学・高校時代は喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。その影響で、高校は卒業を待たずに去ることとなる。
[編集] 18歳でプロテスト合格するも・・・
持病の腰痛が悪化。回復が大幅に遅れ、プロデビューを果たしたのは21歳となっていた1994年6月。当時は地元の宮崎ワールドジムに所属であった。
[編集] 10戦目で日本王座獲得
1996年6月、10戦目にして日本王座初挑戦。安藤謙三(グリーンツダジム)と空位の日本ライトフライ級王座を争い、10回判定勝ち。王座奪取に成功した。9月には初防衛を果たし、11月に王座を返上。
[編集] 地元を離れ、名古屋を拠点に・・・
1998年、世界挑戦を現実のものとするため、宮崎ワールドジムを離れ、名古屋の緑ジムに移籍。同ジムには当時、WBA世界スーパーフライ級王者飯田覚士が所属。彼の世界戦の前座で試合を行うようになる。
[編集] 不完全燃焼の世界初挑戦
「世界ランカーに勝ったら世界戦を組んでやる」と言われていた戸高は1998年12月、張英淳(韓国)に10回判定勝ちを収め、世界ランク入り。
そして、翌1999年3月、故郷・宮崎で世界初挑戦が実現。戸高が世界ランク入りを決めたちょうどこの日に飯田からWBA世界スーパーフライ級王座を奪取、2階級制覇に成功していたヘスス・ロハス(ベネズエラ)の初防衛戦の相手としてリングに上がった。
開始早々から挑戦者らしく積極果敢に攻め、老獪なロハスを苦しめた。しかし、3回、偶然のバッティングで王者の左眉付近から出血。王者の出血は止まらず、4回、ドクターチェックが入る。一時は試合が再開されるものの、程なくして2度目のチェック。ここで試合がストップされてしまう。
「偶然のバッティングで試合続行不能となった場合、4回までなら引き分け。5回以降はそれまでの採点で勝敗を決定する」という規定を適用。4回終了前ということで、試合は引き分けとなり、戸高の世界初挑戦は不完全燃焼の形で終えることとなる。
[編集] ロハスとの再戦
3月の試合でよもやの負傷引き分け。双方共に不完全燃焼となった試合の再戦はすぐに決まった。7月31日、今度は名古屋で再戦。2回、右のショート・ストレートでロハスからダウンを奪う。
これで主導権を掌握した戸高は前半を優勢に戦ってみせる。中盤、王者の反撃を許したが終盤に入ると再びペースを取り返した。そして、勝敗の行方は判定に委ねられ、結果、僅差ながらジャッジ3人の支持を受けた戸高が新王者に輝いた。
[編集] 天才児を迎えてのV1戦
11月に行われた初防衛戦。その相手は元高校2冠王でデビュー前から次期世界王者候補と言われてきた天才児、名護明彦だった。
名護はデビュー以来15戦連勝中(11KO)で、無敗のまま世界初挑戦を迎えることとなる。「戸高の初防衛線の相手は雑草とエリートの戦い」と言われたこの試合だが、試合前の評価は意外にも五分だった。あの曲者ロハスを攻略したことが大きく評価されていたのである。
両国国技館で行われたこの試合は、前評判の高かった挑戦者の強打が不発だった。これまで幾度も対戦相手をマットに沈めてきた名護の右フックは驚異的だったが、初挑戦の緊張からか狙いすぎな感があり、この日はことごとく空を切り、逆に戸高の細かい連打を浴び続けた。
クリンチになろうが戸高はどんな体制からでもパンチを放ってくる。試合終了のゴングが鳴った時、誰の目からも勝敗は明らかだった。
「名護が日本王者時代に戸高が挑戦者としてリングに上がっていたら負けていただろう」とは、トレーナーのマック・クリハラの言葉だが、戸高は世界戦を経て、大きくレベルアップしていた。
[編集] 元世界王者を迎えたV2戦
戸高の2度目の防衛戦は2000年4月、ヨックタイ・シスオー(タイ)を相手に行われた。かつて緑ジムの先輩である飯田覚士と2度に渡って激闘を繰り広げた元世界王者である。
前半、戸高は不用意にパンチをもらい、何度も顔面を跳ね上げられた。しかし8回、終了のゴングとほぼ同時に放たれた戸高の右フックがクリーンヒット。ヨックタイは右に左に大きくよろめきながらダウン。ダメージは明白だった。
これを機に、戸高が一気に攻勢に転じると、9・10回も元王者を滅多打ち。そして迎えた11回、戸高のパンチで大きくグラついたヨックタイは背中を向けた状態でロープまで吹っ飛ばされる。そのまま正面に向き直らなかったヨックタイを見てレフェリーは即座に試合を止めた。見事な逆転KO勝ちだった。
[編集] 古豪ガメスにまさかの敗北
ヨックタイ戦での逆転KO勝ちからもうすぐ6ヵ月が経とうとしていた10月9日、3度目の防衛戦で世界3階級王者の老雄レオ・ガメス(ベネズエラ)と対戦。本来は負けるような相手ではなかった。
しかし「角度によっては物が2重にも3重にも見えるような状態だった」と戸高は語った。
試合前に「眼筋麻痺」を患っていたのだと言う。確かに、この日の戸高は何処かおかしかった。余りにも不用意にパンチをもらいすぎた。
ガメスのパンチを浴び続けた戸高は7回、ついに力尽きる。既に口の中は血で真っ赤に染まっていたが、それでも気力を振り絞り、老雄に向かっていく。しかし、2分が経過したところで、ガメスの強烈な右ストレートをまともに浴びると、遂に仰向けに倒れる。
ここで戸高陣営の松尾・緑ジム会長がリングになだれ込み、試合終了。この瞬間、1年2ヵ月あまり保持してきた世界王座を手放すこととなる。
しかも、この試合で顎の骨を複雑骨折してしまい、長いブランクに突入。再起を果たすまで約1年5ヵ月を要することとなる。
[編集] 2階級制覇のリベンジマッチ
ガメスに痛烈なKO負けを喫した戸高は2001年は1試合も行うことが出来なかった。
2002年3月、ようやく負傷も回復し、再起戦が行えるようになり、見事KO勝ち。その後も2試合を戦い、ともに勝利。
世界ランクにも復帰した戸高は2003年10月4日、WBA世界バンタム級暫定王座決定戦に出場。3年前、戸高を痛烈なKOで葬ったガメスと再戦することになった。
試合は最初から最後まで真っ向からの打ち合いとなったが、手数で上回った戸高が2-1の判定で勝利。因縁の相手に雪辱すると同時に、日本人5人目の世界2階級制覇に成功した。
[編集] ラスト・ファイト
2004年3月6日、戸高はフリオ・サラテ(メキシコ)の挑戦を受けた。
当初、戸高は敵地で正規王者ジョニー・ブレダル(デンマーク)と統一戦を行う予定であったが、最終的に交渉が決裂したもようで、統一戦の前に防衛戦をはさむことになった。
しかし、30歳となっていた戸高はかつての覇気は薄れていた。これまでの戸高らしさは影を潜め、挑戦者のアウトボクシングに終始翻弄される形となった。
最後まで見せ場らしい見せ場を作ることはできず、結局、0-3の判定負け。わずか5ヵ月で暫定王座を手放してしまったのだった。
練習中に怪我をすることが多くなり、常にベストの状態に体を維持できなくなったことが原因だと言う。戸高は結局、この試合を最後に現役を引退した。
最終戦績は26戦21勝(10KO)4敗1分。世界戦戦績は7戦4勝(1KO)2敗1分。
現在は東京都内に「戸高ボクシングジム」を開設。後進の育成に力を注いでいる。
また、ボクシングの指導だけではなく、元世界王者の輪島功一、渡嘉敷勝男、玉熊幸人、飯田覚士らと袴田事件の再審を求める要請書を最高裁判所に提出するなど、元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動も行っている。
[編集] 獲得タイトル
- 日本ライトフライ級王座(防衛1=返上)
- WBA世界スーパーフライ級王座(防衛2)
- WBA世界バンタム級暫定王座(防衛0)