成廉
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成廉(せい れん、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。
[編集] 正史の事跡
姓名 | 成廉 |
---|---|
読み・ピンイン | せいれん〔Chéng Lián〕 |
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 呂布 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
呂布側近の武人。呂布は長安から追われて後、袁紹と共に常山で張燕と戦った。この時の呂布は、わずか数十騎で1日に3・4回も張燕の本陣に突撃を行ったが、成廉は魏越と共に常に呂布の傍らにあった。このような戦いぶりを10日余り続けた末、ついに張燕軍を大いに破っている。
建安3年(198年)10月、下邳で曹操軍との野戦に成廉も参戦したが、呂布軍は敗北し、成廉は捕虜にされる。この野戦で成廉を喪失したことが大きな痛手となり、呂布は下邳城内に追い込まれて滅亡した。呂布滅亡後、成廉に関する記事は見当たらない。
史書での成廉の記述は断片的でしかないが、『後漢書』呂布伝では「健将」、『三国志』魏書呂布伝では「驍将」と表現されており、勇猛果敢な武将として高い名声を博していたことがうかがえる。
[編集] 物語中の成廉
『三国演義』では、呂布配下の八健将の1人(序列5位)として登場し、曹操との最初の戦いでは、曹操を後一歩まで追い詰めるが、曹操の部将・典韋に撃退された。その後、下邳城攻防戦以前に、濮陽で曹操配下の楽進に射殺されたことになっている。