後藤達俊
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後藤 達俊 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 後藤 達俊 |
本名 | 後藤 達俊 |
ニックネーム | Mr.バックドロップ(Mr.BD) 大魔人 |
身長 | 180cm |
体重 | 105kg |
誕生日 | 1956年5月25日(52歳) |
出身地 | 愛知県常滑市 |
所属 | フリー |
スポーツ歴 | ウエイトリフティング 空手 |
トレーナー | アントニオ猪木 |
後藤 達俊(ごとう たつとし、1956年5月25日 - )は、フリーランスのヘビー級の男性プロレスラー。Mr.バックドロップ、大魔人などのニックネームを持つ。愛知県出身。
目次 |
[編集] 来歴
名城大学時代、ウエイトリフティングで活躍(インターカレッジ3位)。日産自動車でサラリーマン生活を経て、アントニオ猪木が名誉会長をつとめる寛水流空手の初代会長水谷征夫の紹介で26歳で新日本プロレスに入門。
ヤングライオン時代、橋本真也との激闘で前座を沸かす。また、アントニオ猪木の付き人も務める。1985年第1回ヤングライオン杯で決勝に進出するが負傷により欠場。そのまま海外武者修行へ。「新日をリタイアした」と称してNWAミッドアトランティック地区に行き、ケンドー・ナガサキとマスクマンタッグライジング・サンズを結成する。同年10月凱旋帰国するが、初戦のタッグマッチでコンガ・ザ・バーバリアンのリフトアップ・スラムで肩を脱臼。不遇の時代に入る。
翌年の第2回ヤングライオン杯に、海外武者修行経験済なのにエントリーされ、決勝で山田恵一に敗れて準優勝。身内の不幸もあり、体重が減ってしまったため、1987年には越中詩郎が負傷により返上したIWGPジュニアヘビー級王座決定トーナメントにエントリーされ、1回戦で小林邦昭に敗れる。この後も、ジュニアともヘビーともつかぬ扱いを受け、前座に甘んじていたが、1989年、金髪に染めてブロンド・アウトローズとしてヒール・ターンし、ブレイクする。この時代、得意のバックドロップで馳浩を一時的に心臓停止に追い込む。その後、レイジング・スタッフ、反選手会同盟、平成維震軍、TEAM 2000、クレイジー・ドッグスと一貫してヒールを歩む。反選手会同盟参加の際にはそれまでの金髪からスキンヘッドに変え、あまりの似合いっぷりにファンに衝撃を与える。その間、WAR世界6人タッグ王座、1999年6月には小原道由と組んでIWGPタッグ王座を獲得した。テレビ中継されたこの試合は、内容もさることながら、試合後の控え室での一連のやり取り「なんだ、この2本は?」がファンの間で語り草となっている(缶ビールが2本置かれただけで誰も2人を祝うシーンがなかった)。
1999年頃、クレイジードッグス(“自由な犬”とも“犬軍団”とも言われたが)として小原道由と行動を共にし、nWo Japanへの加入を蝶野らに希望していたが、なかなか受け入られず、背中にスプレーで“犬”の文字を書かれてしまう屈辱を味わってしまうが、後の査定試合終了後に晴れて“合格”をし加入を認める同軍団のTシャツを蝶野らが後藤と小原に着させようとしたその瞬間に、後藤と小原が蝶野らのバックをとりバックドロップを見舞い、「そんなものは元々いらねーんだよ」の小原のマイク発言があった。蝶野ら軍団は恩を仇で返された結果となってしまった(後に和解し行動を共にする)。
魔界倶楽部が参戦してくると、小原、ヒロ斎藤、中邑真輔にエンセン井上と「クレイジードッグス」を結成。魔界の解散、小原、エンセンのフェイドアウト後は本隊に合流し、現場責任者にも就任する。しかし、長州力が現場監督となるとこれと対立し、責任者の職を解かれる。その後は蝶野、天山らの反長州勢力に合流した。
新日本プロレス在籍時はヒロ斎藤と組むことが多く、数々の反則技を駆使した試合運びは名人の域に達しているといっても過言ではない。その斉藤とは誕生日が5月25日で同じ。毎年一緒に祝われており、2002年、2004年に、斎藤と2人でタッグを組んで試合をし勝利している。
2005年に黒髪に戻すが、これについては子供の私立受験の面接があったからと言われる。入念に準備をしたにもかかわらず、校長がプロレスファンであったためアッサリ合格してしまったという。現在は再び金髪に戻している。
2006年1月27日、新日本プロレスを退団。フリーランスとなる。 退団に際し、本人はオファーをくれば、ハッスルでもPRIDEでも出る覚悟であると語った。 フリー転向後の初参戦団体はキングスロードで、2月28日後楽園ホール興行に登場した。ビッグマウス・ラウドに参加した時はリングネームを「マッド後藤」とし、ドッグ小原(小原道由)と「マッドドッグス」というチーム名を用い、怨敵村上和成と手を組んだかつての盟友エンセン井上の首を狙う。無我・ワールドプロレスリングのプレ旗揚げ戦にも参加した。また、DDTプロレスリングには新日入門当時の同期であったポイズン澤田JULIEと邂逅。蛇界転生し、「後藤蛇つ俊」として参戦した。また、ハッスルにも「TG」のリングネームで参戦した。
藤波達により設立された「無我ワールド・プロレスリング」に参戦。(無我は所属でなく選手はフリー契約となる。一部を除き。)
2007年11月、藤波の無我にヒールは要らないと発言に真っ向から無我への批判をスポーツ新聞に綴り、その結果団体側から契約解除となる。
[編集] 得意技
- バックドロップ
- 技をかける際に、後藤独自のひねりを加えている。相手によって角度を変え、越中詩郎や馳浩など受身の上手い選手は急角度で落とす。
- 後藤の代名詞である技で、バックドロップを出すとどんな会場でも沸くといわれる。馳浩の一件から、「殺人バックドロップ」や「地獄バックドロップ」と呼ばれている。
- リバース・チキンウィング
- カチ上げラリアット
- かなり相手に接近してから腕を振り上げるため抜群のスピード感がある。
- ジャーマン・スープレックス
- ここ一番でしか出さない奥の手でブリッジの美しさには定評がある。
[編集] タイトル履歴
- 新日本プロレス
- IWGPタッグ王座(1度):(&小原道由)
- WAR
- WAR世界6人タッグ
- DEP
- DEP無差別級王座
[編集] 入場テーマ曲
- Mr.B.D.
- レイジング・スタッフのチームテーマ曲であった時期には、「頑張れ、頑張れ、レイジング!頑張れ、頑張れ、レイジング!」と一部のファンに歌詞を加えられ、妙にはまっていた。
[編集] その他
- 頭蓋骨骨折を負っていたが、そのまま巡業に参加し、自然治癒してしまった。常人であれば手術しなければ命に関わるほどの重傷だったという。
- 大卒・サラリーマン経験が示すように、常識人であり後輩レスラーからも慕われているが、ヤングライオン時代は酒にまつわる数々の伝説がある。
- 入門としては山崎一夫のすぐ下となるが、後藤がかなり年上であった事や、入門してもすぐ逃げる練習生が多かった事から、後藤に対しかなり気を使い、便所掃除も命令ではなく「一緒にやりましょう」と誘う形だったと山崎自身が引退後に述懐している。
- デビュー当時、なかなか勝利に恵まれず、同じく全日でデビュー後、連敗街道を進んでいた川田利明と比較され、「どちらが先に初勝利するか?」とプロレス雑誌で取り上げられた。結果は先輩に勝った川田であり、後藤は山田恵一のデビュー戦まで初勝利出来なかった。
- 後輩の面倒見がよく、しばしば選手のブログに後輩を気遣う言動が書かれている。また、自身のブログではファンからの質問に、丁寧に答えている。
- 2006年5月19日のZERO-ONE MAX大阪大会、プロ23年目にして初めてのシングル王座(AWA世界ヘビー級)に挑戦。王者・大森隆男に、流血を強いる展開に追い込みながら惜しくも敗れるが、「やはり俺の本質はヒール」と発言。ファイトスタイルに対する迷いを吹っ切る試合となった。
[編集] 外部リンク
- Mr.バックドロップ 後藤達俊(ブログ)